
「三瀬さんじゃないですか?」やり取り直後に
「何か悪いことしたかな?」。突然、編成担当から遠征先のホテルの一室に呼び出された。不安に思いながら部屋へ向かった三瀬幸司氏が告げられたのは中日へのトレード。プロ7年目、2010年6月の出来事だった。
この年、ソフトバンクの1軍では8試合に登板し防御率10.80。前年の2009年は17試合の登板で防御率6.30。1軍で登板するたび、打ち込まれるシーンが目立っていた。「チームに貢献できてない自分がずっといて。成績を見たら、しょうがないなって」。当時の率直な思いを漏らす。
移籍先の中日については「当時は監督が落合(博満)さんで、やっぱりちょっと怖いイメージがありました。それにいい投手も多い印象だったので『え、ほんと中日ですか?』って、最初はそんな感じでした」。笑いながら印象を語った。
トレード時は34歳と決して若くはなかった。なぜ苦しんでいた三瀬氏を中日が獲得したのか。そして移籍先では人生を変える出会いが待っていたーー。
当時、ソフトバンクではキャッチャーの怪我人が相次ぎ、「捕手を緊急獲得するためのトレードがあるのでは」と報じられていた。食事会場でも話題はトレードのうわさで持ちきりだった。「三瀬さんじゃないですか?」「俺とか欲しい球団おらんやろ」--。チームメートとやりとりをしていた直後、中日・清水将海捕手との交換トレードが発表された。
実は発表前までは、シーズン終了後の戦力外を覚悟していた。「あの年はちょっと1軍で投げても出るたびにやられて、上がって落とされて、またすぐダメだったんで。『これクビだな』と思っていた」。そんなことを考えていた時、まさかの移籍が告げられた。
トレードが決まった意外な舞台裏
中日へのトレードは、意外なつながりがきっかけだった。「西武時代の繋がりで、秋山(幸二)監督から森(繁和)ヘッドコーチに『三瀬をなんとか復調させてほしい』との相談があったと、後から聞きました。あのころのドラゴンズは左ピッチャーが少なかったという事情もあったと思います」。秋山監督の深い配慮と、もう一度輝いてほしいという願いが込められていた。
当時、ソフトバンクの2軍監督を務めていた鳥越裕介氏の言葉も大きな支えとなった。鳥越氏自身も中日からダイエーにトレード移籍した経験があり、移籍が決まった時に声をかけてもらった。「トレードをマイナスに考えるなよ。チャンスだから。チャンスをなんとか生かして頑張ってこい」。当時はトレードをただの放出と捉える風潮もあった時代。「本当に鳥越さんと話したことで前を向けたというか。言葉はありがたかったですね」と振り返る。
いきなり告げられた「お前、覚悟しておけよ」
中日へ移籍後、森ヘッドコーチの元へあいさつにいくと、握手の際に手を強く握り返されながらニヤリと“恐怖の言葉”をかけられた。「お前、覚悟しておけよ」。落合監督からも「頑張れよ」の一言だけ。「えらいところに来てしまった」と当時を思い出した。
そんな中、大きな出会いがあった。投手コーチを務めていた近藤真市氏から左足の使い方を指摘された。「左足をもっと使って、股関節でしっかり押し込んで投げろ。それだけを意識しろ」。毎日繰り返されたアドバイスを実践することでボールにキレが戻り、制球も安定した。
「ボール自体は本当に良くなったと思います。ある程度、自分の投げたいように投げられていたし、年相応のピッチングができるようになってきた」。移籍1年目の2010年には日本シリーズでの初登板も果たし、2011年には44試合に登板した。
「(アマチュア時代は)あまり強くないチームで育ってきたので、ピッチングの基礎知識が少なかった。プロに入ってからいきなり抑え投手になったので、周りに何も言われなかったんです。左足の使い方も、ピッチャーをやっていたら普通に知っているべきことだったと思うんですけど、知らないまま成長してしまった」
限界だった左肩「知らぬ間に…」
新天地で一花咲かせたものの、「終わり」は確実に迫っていた。2012年のキャンプ中、左肘の違和感を覚え、3月に間接遊離体除去・肘関節形成の手術を受けた。シーズン終盤までリハビリに費やし、2試合の登板に終わった。2013年は20試合に登板したものの、肘と肩は限界を迎えていた。「肘は社会人のころからずっと痛いまま投げていたんですけど。手術をしたら、今度は肩が痛くなり出して……って感じですね。知らぬ間に肩に負担がかかって、ガタがきていました」。
2014年9月25日、現役引退を発表。「当時は休んでいる時間の方が長くて、リリーフ投手はやはり毎日ベンチにいてこそというか。中継ぎに誇りはあったので、ベンチに入ることができないのなら、いらないよなという感じでした」。決断の背景にあった思いを明かした。
ダイエー、ソフトバンク、中日で積み重ねた12年間の現役生活。苦しい時間も長かった。「左足の使い方も、もっと早く気がつけていたらどうだったんだろうと思うことはあります」。それでもこう続けた。「良い時も悪い時も、それが野球なんだなと」。遅れてきた気付きも、遅すぎることはなかった。たどり着いたその境地こそが、三瀬氏の“プロ野球人生の答え”だったのかもしれない。【三瀬幸司編・完】
(森大樹 / Daiki Mori)