ドラ1に勝たねば「レギュラーになれない」 黄金時代の前夜…柴原洋を突き動かした存在

現役時代の柴原洋氏【写真提供:産経新聞社】
現役時代の柴原洋氏【写真提供:産経新聞社】

ドラフト同期、井口氏との出会い

 もう30年も経とうとしているのに、いまだに鮮明に覚えている。常勝軍団の礎を築いた多くの才能がプロ入りした1996年のドラフト会議。3位で指名された柴原洋氏にとっては、ある運命的な出会いをする。その相手こそ、1位指名された井口資仁氏だった。

「井口のことは、もともと大学のころから知ってたので、『わあ、井口と一緒にプレーするんだ』って。本当に嬉しかったんですよ。大学時代から本当にすごい選手でしたから」

 柴原氏は九州共立大時代を振り返る。大学日本一を争う明治神宮大会の決勝で対戦した2人。青学大の井口氏に2本塁打を浴び、「軽くやられました」と苦笑いするほどの強烈な印象だった。そんな世代のトップランナーが、これからはチームメートになる。それは喜びと同時に、柴原氏にとって競争の始まりを意味していた。

井口氏と「ポジションは違いましたけど…」

「内野と外野でポジションは違いましたけど、『井口を追い越さないとレギュラーになれない』という気持ちでした。身近にいる良いライバル。同学年で同期ですし。『こいつに勝たなければ』という思いはすごくありましたね」

 対抗心の源は、単なるライバル意識だけではなかった。プロ入り時の評価の違いが、柴原氏の心に火をつけた。「僕の方が(ドラフト順位が)逆だったら多分そうは思っていなかったかもしれないですね。僕が3位で、井口が1位だったから」。2位はのちに平成唯一の三冠王となった松中信彦氏(現・中日打撃コーチ)、4位には現在ホークスで1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)を務めている倉野信次氏が指名されていた。そうそうたる顔ぶれの中でも、柴原氏にとって井口氏の存在はやはり特別だった。

「他のチームとかもざーっと見たら、(昭和)49年会はすごいメンバーばかりなので。ゴジラ(松井秀喜氏)がいたり、黒田(博樹氏)がいたりとか。いろんなメンバーがいますけど、やっぱり僕は大学時代から強烈な印象を持っていたのが井口だったので。その存在は僕にとってすごく大きかったですね」。その言葉からは、競争心が入り混じった強い絆すら感じられる。

1999年の優勝は「先の考え方も分からなかった」

 この黄金世代はほどなくチームの主力に成長し、常勝軍団の礎を築いた。1999年には、ダイエーとして初優勝。「みんなが分からないことだったので。優勝というものを。だから変な緊張感もなく、あっさり優勝した感じでした」。柴原氏が入団するまでチームはBクラス続き。優勝争いすら経験したことがない選手ばかりだった。優勝を意識しなかったわけではないが、そのための心構えや方法論すら手探りだった。

「優勝を目標に、何をしないといけないとかではなくて、毎日の試合をどう勝っていくかということだけを各々が考えながらやっていた。先が見えていなかったし、先の考え方も分からないから、日々目の前の試合を全力で戦う。それが99年だったなと思います」

 チームを牽引したのが、小久保裕紀氏、秋山幸二氏、工藤公康氏といった百戦錬磨の選手たちだった。目の前の一戦に全力を尽くす日々。その積み重ねが、やがて大きな歓喜へと繋がった。強烈なライバルであり、目標だった同期の存在。そして手探りの中で掴んだ栄光。それらの経験が、柴原洋というプレーヤーを形作った。

 現在では同期とは住む場所も離れ、会う機会は少ないが、プロ野球界で“49年会”という絆は続いている。野球教室やイベントなどを企画し、関東のメンバーが中心となって活動を広げているという。球場で顔を合わせれば、昔と変わらず様々な話に花が咲く。「『これからも49年会でいろんなことをやっていきたいね』と話しています」。柴原氏は今も、会を通じて球界に貢献するための情熱を注ぎ続けている。【最終回に続く】

(飯田航平 / Kohei Iida)