
「鷹を彩った男たち」柴原洋編②
どうしても欲しいものがあった。背番号「1」。ダイエー時代の2004年から担い、2005年からはソフトバンク初代の背番号1をつけたのが柴原洋氏だ。「受け継がせてもらったけど、重たかったな……」。そう語る表情は、どこか誇らしげだ。
秋山幸二氏が現役を引退した2002年のオフ。「『この背番号を受け継ぐのは俺だ』という気持ちがあったので頑張れましたね。秋山幸二という大きな背中を見て僕は育ったので、あの背番号は僕がつけるものだと勝手に思っていました」。誰よりも尊敬する先輩が背負った番号。「直訴しました」。柴原氏が自らの思いを球団にぶつけると、厳しい言葉が返ってきた。
「『それだったら結果で応えてくれ』って言われましたね。欲しいのであれば、それを証明しないといけない。『結果を出せ』と」
こだわった理由…生き方を証明する手段
翌2003年は、その覚悟がプレーに現れたシーズンとなった。112試合に出場し、打率.333と53打点はいずれもキャリアハイ。結果を残し、実力で自らの希望を勝ち取った。「目の前の目標というか、大きな存在がある。それに対して努力をした結果が、こういう形でついてくるんだなと改めて実感しました」。それほどまでに「背番号1」にこだわったのは、単なる番号ではなく、生き方を証明する手段でもあったからだ。
「秋山さんが引退して、この背番号を受け継ぐのは俺だっていう気持ちがあったので頑張れましたよね。僕は同じ外野で秋山さんの後ろ姿を見ながら成長できたし、ここまでやれたと思う。試合に臨む姿勢や練習の取り組み方っていうのは、本当にキャンプからいろいろと教わりました」
思いの裏側には、秋山氏への深い敬意がある。最も影響を受けた選手の背中を追い続けた日々が、柴原氏の野球人生の礎となった。実際に、背番号1を背負ってからは常に重みと向き合ってきた。球団から提案されたわけではなく、球団の提示に応えて取った番号。「“僕は”頑張って取った方なんで」。
内川聖一との会話「いいですか?
だからこそ「チームを引っ張るんだっていう思いになってもらえる選手がいるのであればつけてほしい」と、今後のホークスを担う選手が番号を継いでくれることを望んでいる。その一方で、柴原氏の後に1番を受け継いだ内川聖一氏とのやり取りについても語った。
「『1番をつけさせてもらいたいんですけど、いいですか?』と話をいただいて。それに見合った成績を毎年のように出していた選手だったし、僕とは立場が違う選手だったので。『全然いいよ。つけてもらって活躍してもらった方がありがたいし、空き番号になるよりかはつけてもらって頑張ってもらった方が嬉しいよ』と話をさせてもらったんです」
秋山氏の背中を追い、自らの道を歩んだ柴原氏。ソフトバンクの初代「背番号1」が誕生するまでには、柴原氏のプロ野球人生が詰め込まれていた。【第3回に続く】
(飯田航平 / Kohei Iida)