昨季限りで現役を引退した和田毅さんの鷹フル単独インタビュー。全10回の第2回はユニホームを脱ぐ決意をした瞬間について迫ります。「バキッ」という音とともに襲いくる激痛で目覚める日々。壊れても構わない覚悟で投じた“現役最後の1球”——。最後まで貫き通した「和田毅の生き様」をお送りします。
真っ暗闇に「バキッ」という音がはっきりと耳に届く。それと同時にやってくる左膝の痛みで睡眠は強制的に中断させられた。「寝ていて急に膝がねじれた瞬間、挟まる感覚というか。バキッという音がして、『はぁ……』ってため息をつきながら膝を戻すみたいな。違和感は去年のキャンプからありました。投げているときにも痛みが出始めたので、『これはやべえな』と。正直キツイなって感じでしたね」。
22年にわたるプロ野球人生の終止符を打つ決断を下した最大の理由は、左膝の故障だった。「苦しかったというか、決め手になりましたね」。2024年の春季キャンプから症状は現れ始めた。「病院で検査も受けましたし、注射も何回か打ちました。結局、膝に関して効いたのは鍼治療でしたね。自分で『こうやってくれ』って言ったのが効いて。もう最終手段。これで効かなかったら無理だなと思ったので」。
鍼を打ったのは、膝の皿の裏側。通常の治療ではありえないほどの深さだった。「自分から言わないと、トレーナーさんもやりたがらないだろうなと。めちゃくちゃ痛かったです。『うわあぁぁ』って。例えようのない痛みでしたね」。これまで数えきれないほどの注射を体に打ち続けてきた左腕であっても、こらえきれないほどのものだった。
22年間もプロの世界で走り続けた43歳。治療を諦めたとしても、誰も文句は言えないはずだ。それでも、あくまでマウンドに立つことにこだわった。「左膝が治るんだったら、やる価値があるなと思いましたね」。現役引退の覚悟を妻に告げたのが7月。鍼を打ったのは8月中旬のことだった。
治療の効果もあり、チームがリーグ優勝を決めた2日後の9月25日には中継ぎとして1軍に昇格した。「8月の終わりごろに藤井(皓哉投手)とマツ(松本裕樹手)が怪我で投げられないってなったので。自分がクライマックスシリーズ(CS)や日本シリーズで必要な戦力になれるんだったら……。そうなりたいなと思ったので。その思いだけでした」。ユニホームを脱ぐことを決めながらも、チームのために腕を振った。
“現役最後の1球”は、ファンに見てもらうことはなかった。CSファイナルステージ開幕直前の10月13日。全体練習で行われたシート打撃に登板した左腕は左脚の付け根を負傷。ポストシーズンでの登板は絶望的となった。「もう投げるのは無理だなと思いましたね。自分の中でここ(シート打撃)で投げられなかったら、CSのマウンドにも上がれないだろうと思っていたので」。続けて口にしたのは、壮絶な覚悟だった。
「肉離れするかもな、っていうのはありました。でも、覚悟を持ってやったわけなので。もし後遺症が残ったとしても、僕は来年(2025年)は投げないと決めていたから恐怖はなかったです。投げられるか、投げられないかっていうだけ。やった瞬間はめちゃくちゃ痛かったですけど。『うわー、やっちったー』みたいな感じでした」
当時の取材を思い返しても、浮かぶのは和田さんの柔和な表情ばかり。これで全てが終わってもいい——。そう覚悟した人間の“悟り”だったのかもしれない。「相当、無理はしてましたね。怪我を承知の上でやっていたので。でも、(球速が)142キロも出るんだなと思いましたね。こんな足の状態で140キロ出るんだっていうのは、自分でもびっくりしました」。茶目っ気たっぷりに笑う左腕の表情に、なぜか目頭が熱くなった。
「もちろん倉野(信次1軍投手コーチ)さんと話もしましたし、投げないっていう選択はなかったので。来年も(現役を)やろうと思っていたら、100%投げていないですけどね」。和田さんはそう言って、再び相好を崩した。1つの後悔もなくやり切ったと口にしたのは、偽りのない“真実”だった。
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日米通算165勝を挙げた左腕。200勝の大記録に届かなかった悔しさは「全くない」と言い切る。「杉内が何勝したか知ってます?」。記録よりも記憶——。和田毅が何よりも大事にした思いとは……。第3回は2月8日に掲載します。