余震で鳴り響くアラート…塩士暖は「野球に救われた」 地震翌日、真っ先に探した“宝物”

高卒2年目右腕の塩士暖…2024年1月の能登半島地震を経験

 育成選手にスポットライトを当てる新コーナー「未来の推し鷹」。今回は高卒2年目右腕、塩士暖(しおじ・だん)投手が登場です。石川県輪島市出身の19歳は、2024年1月に能登半島地震を経験。気持ちが晴れず、どうすればいいのか迷っていた中、真っ先に探したのは自分だけの“宝物”でした。今も記憶に残るキャッチボール――。右腕が流した涙には、乗り越えた幾多の困難が詰まっていました。

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 2022年、自ら「厳しい道」を求めて奥能登の公立校へと進んだ。塩士が3年間を過ごした門前高校は、かつて星稜高を率いて松井秀喜氏らを育てた山下智茂氏の母校でもある。「野球部の“1期生”だったそうです。先生が来られると聞いて、その指導を受けてみたいなと思いました」。同年3月から、山下氏が同校の野球指導アドバイザーに就任するという情報を耳にして、迷うことなく進学を決断した。

「生徒数も全然いなくて、廃校の可能性が出ていたので。『もう1回盛り上げよう』ということで、野球部を教えに来てくれた感じです」

 実際に名将と接してみると、想像をはるかに超える厳しさを持った人だった。グラウンドの外では、ニコニコと笑顔で言葉を交わす。しかし、ひとたび練習が始まると「正直、人間が変わりましたね……」。塩士が苦笑いで、そう振り返るほどだ。妥協なき姿勢でナインを引っ張る山下氏に、塩士も必死でついていった。「特にノックバットを握った時ですね。めちゃくちゃ怒鳴ったり、本当に鬼のような感じで『怖い』ってイメージでした」。確かに厳しい指導だったが、着実に技術も身についていった。そんな日々に充実感を抱いていた。

 プロへの階段を確かに上り始めた矢先、右腕の日常はたった一瞬で一変した。

 2024年1月1日――。

 故郷を能登半島地震が襲った。そこから始まった数か月の空白と、絶望的な状況の中で真っ先に探した“宝物”。爪痕が残る寒空の下、親友と交わしたキャッチボールの音は、今も耳の奥に残っている。震災を経て、塩士はなぜ「野球」に救われたのか。夢を手にして、涙を流した瞬間とそのワケとは――。

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この先で分かる3つのこと

名将・山下智茂氏の「鬼の指導」を求めて。過疎地の公立校へ進んだ覚悟
アラートが鳴る避難所のキャッチボール。絶望の中で再確認した「野球の力」
地震から297日目の吉報。育成13位指名で見せた涙と2026年への誓い

家族から「ダメ」と言われて…中学から始めた野球

 能登半島地震が起こったのは、午後4時10分。塩士は家族とおせちを食べながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。「すぐに立てなくなって、地面に四つん這いになりました。人間の力の無さを知ったじゃないですけど、何もできないんだなっていうふうには思いました」。実家に損壊はなかったものの、電気や水道といったライフラインがストップ。最低限のものだけを手にして、近隣の小学校に避難した。

 一夜明けた翌日、再び実家へと戻った。目的はたった1つ。崩れた家具が玄関に散乱する中、真っ先に探して手に取ったのが、16歳の誕生日に両親に買ってもらった黒色のグラブだった。

 10歳の頃、いとこがプレーする姿を見て野球を始めたいと思った。「その時は家族にダメと言われて、結局、中学から野球部に入ったんです。だからグラブはどうしても諦めきれなくて……。野球をするために門前高校を選びましたし、それが失われると意味がなくなってしまうので……」。避難所に戻ると、同学年のキャプテンが待ち構えていた。

 2人は小学校のグラウンドに立った。余震が続き、スマートフォンからは幾度となく緊急地震速報のアラートが鳴っていた。人生が様変わりしようとしている状況の中、冬の空の下で響く乾いた捕球音。塩士が野球に救われた瞬間だった。

「キャプテンも含めて、お互いに地震でしんどかったなというのはあるんですけど、やっぱり野球をやっている時は笑顔だったんです。改めて大きな存在なんだなと、そこで気付かされました。一緒にリフレッシュした記憶はありますね」

ドラフト指名を受けて「涙が出てきちゃいました」

 避難所での生活は2週間、続いた。「学校の中で、それぞれのトイレの前にタンクがある。水が使えないから、流すために貯めておくものだったんですけど。プールの水をバケツに汲んで、3階までそれを運んだりしていました」。当時17歳。同世代の友達とともに手伝いには積極的に参加した。「自衛隊の方が持ってきてくれる物資を分けに行ったり、小さい子どもや高齢の方に食べ物を配ったこともあります」。

 一時は家族と“離れ離れ”にもなったという。避難所での2週間を終えると「家族とは別に、自分だけが金沢や小松の後輩のお家にお邪魔させてもらって、お世話になっていました。そこで練習環境は確保できていたんですけど、チームメートはみんなそれぞれの場所で個別に練習していた感じです」。野球部が集まり、活動を再開させたのは4月。最後の夏の県大会は準々決勝で敗れたが、紆余曲折の道のりで得たのは貴重な経験ばかりだ。

 地震発生から297日が過ぎた10月24日。運命のドラフト会議を迎えた。「学校の教室で、黒板に(ドラフトの中継)映像を映して見ていました」。ようやく自分の名前が呼ばれたのは、育成13位。太陽は沈み、外はもう真っ暗になっていた。「3年前、高校に入った時にはプロだなんて思っていなかったので。もちろん嬉しかったんですけど、不思議な感じで。仲間や山下先生、監督コーチの顔を見ていると涙が出てきちゃいました」。いくつもの困難を乗り越えて掴んだ夢。塩士はまた、野球に救われた。

 プロとして2年目のシーズンとなる2026年。現在は右肘痛でリハビリ生活を送っている。「怪我をしてしまって、お世話になった石川の方々にいい報告ができていない。この時間でも、できることはたくさんあるので。心は折れないよう、前を向いてやっていきます」。地道な日々を必ず乗り越えてみせる。野球ができる幸せを、もう1度味わいたいから――。

(竹村岳 / Gaku Takemura)

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