「野球をやめます」転機は監督からの厳しい言葉
2025年ドラフトでホークスは支配下選手5人、育成選手8人を指名しました。鷹フルではチームの未来を担うルーキーズを紹介します。第2回は大商大からドラフト3位で指名された鈴木豪太投手です。実は当初からプロ志望だったわけではなかった右腕。高校時代に一度「野球を辞めます」と口にした出来事がありました。
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これまでの野球人生で忘れられない一戦がある。東海大静岡翔洋高時代、3年夏の静岡大会決勝――。「あと1回勝ったら甲子園だったので……。あそこで負けたことが、今までの人生の中でも大きな糧になっています」。予選から全7試合でマウンドに上がるなど連投の疲れもあった中、強豪の静岡高に0-4で敗北を喫した。
悔しさを噛み締める中、ベンチ裏で取材を受けている間に目から涙が溢れた。「精一杯投げてきたので、気持ちの整理は出来ていたんです。ただ、話をしているうちに『もう終わりか』と思って悲しくなって」――。脳裏には高校生活の様々な思い出が蘇った。浮かんできたのは人生でたった一度、「野球をやめます」と伝えたときの記憶だった。
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続きの内容は
プロへの扉を開いた大学での「生き残る道」とは?
肩の痛みで登板回避…それでもドラ3評価を勝ち取った「真の理由」
阪神や西武に進んだ先輩から感じ取った「プロに行ける基準」
もともとは捕手として高校に入学した。投手としての素質を見抜いたのは、かつて巨人でプレーした経験を持つ原俊介監督だった。「肩甲骨の使い方が柔らかく、地肩も強かった」。鈴木のプレーを一目見て、投手へのコンバートを決断。2年秋には背番号1を背負うまでになった。
そこからは球速が140キロに届かない日々が続き、壁にぶつかった。「正直、野球人としての限界かなと思ってしまったんです」。2年秋に行われた進路相談。監督室で指揮官と正対した右腕は、その場で意を決して伝えた。
「野球は辞めます。大学ではやりません」
しかし、監督の反応は厳しいものだった。「エースのお前がやめてどうするんだ。そんな中途半端な気持ちで諦めるのか」。その叱咤に加えて、周囲の支えや両親の期待を改めて胸に刻み、もう一度前を向いた。この出来事で練習に火がつき、3年夏前には最速を144キロまで更新。最後の予選では全試合でマウンドに上がり、聖地まであと一歩のところまで駆け抜けた。
座右の銘は「飽くなき向上心」
大商大に進学後は、更なる転機が訪れた。レベルの高い投手が集まる環境で、当時の監督からサイドスローへの転向を打診された。「同じタイプのピッチャーも多くて、出番がなかった。サイドにしていなければ、今こうしてプロに行けていたか分かりません。生き残る道はここだと思いました」。
チームには後にプロ入りした伊原陸人投手(阪神)や上田大河投手(西武)ら先輩たちがいた。「これくらいになればプロに行ける」という明確な基準を肌で感じ、才能が一気に開花した。関西六大学リーグでは、3年春に防御率0.00をマークしてMVPを獲得。4年秋は右肩痛の影響でリーグ戦登板なしに終わったが、ホークスにこれまでのパフォーマンスを高く評価され、ドラフト3位で指名を受けた。
「直前に『無理をして投げ急いで評価を落とすより、春までの評価を信じよう』と監督と相談していたんです。我慢して本当によかったです。でも、これほど高い順位で評価してもらえたのは驚きました」
もし高校時代、あのまま野球を辞めていたら――。「今の自分があるのは、あの時に辞めなかったから。本当に続けてよかったです」。ほっとしたような表情でそう振り返った。
座右の銘は、恩師の原監督から授かった「飽くなき向上心」。「現状に満足せず、常に次の目標に向かう。プロ入りという目標は達成しましたが、ここからが本当の勝負。また新たな目標に向かって突き進んでいきたいです」。その飽くなき向上心で、今度はプロの世界を駆け上がっていく。
(森大樹 / Daiki Mori)