川口冬弥の軌跡…「顔を見た瞬間に泣いた」 介護職→プロ、手取り20万からの“逆転劇”

A組のマウンドに上がった川口冬弥【写真:冨田成美】
A組のマウンドに上がった川口冬弥【写真:冨田成美】

異色の経歴、過ごした高齢者との日々…「特殊な経験」

 人生の大先輩たちが流してくれた涙が、かけがえのない活力になる。2024年育成ドラフト6位で入団した川口冬弥投手が、春季キャンプでA組のマウンドに上がった。異色の経歴を持つ右腕。支配下を目指す戦いが本格化する中で、忘れられないのは、自分を支えてくれた“おじいちゃんとおばあちゃん”たちの涙だ。「顔を見た瞬間に泣いてくれた」。プロの世界での成功を誓った瞬間だった。

 奈良県出身。東海大菅生高では背番号をもらえず、城西国際大でも才能が花開くことはなかった。アマチュア時代を振り返っても、エースと呼ばれたことは「1回もないですね」と苦笑いする。“王道”を歩んでこられなかった右腕の転機となったのは、社会人野球のクラブチーム・ハナマウイに入団したことだった。

「結果的にハナマウイっていうクラブチームに拾ってもらった形でした。自分は1年目の時から『ハナマウイからプロに行く』ってずっと言っていました。バカにはされてきたんですけど、本気で行くって。2年目の時に、西武の2軍戦でいいピッチングができた時に、プロに行けるレベルにあるのかなとは思いました。結局、指名は漏れたけど諦めきれなくて(四国ILの)徳島に行きました」

 ハナマウイは2019年に創部され、元オリックスなどで通算700安打を記録した本西厚博監督が指揮を執っていた。練習を行う傍らで、日中は介護職に勤しんだ。「介護デイサービスをしていて、朝7時から働いて、家に着くのが夜7時くらいでした。拘束時間は12時間くらいありましたね。そこから練習して、トレーニングして、また次の日は仕事に行っていました」。

 手取りの給料は、20万円弱。「家賃光熱費とか全部出していたので、貯金とかそういう余裕もなくプラスマイナスゼロか、もうマイナスぐらい。ジム代も自分で払うので、そういう使い方をしていましたね」。限られたお金はプロに行くための投資として使ってきた。野球以外に時間を費やす日々で、生活も厳しい。実直に取り組んでこられたのは、プロという夢を諦めなかったからだ。

 接するのは、80歳や90歳を超える方々。甘いマスクを持つ好青年は誰よりも人気者だった。「利用者さんたちに好かれていたと思います。野球をやっている人ではなかなかない、特殊な経験を人生の大先輩たちにさせてもらいました」と感謝は尽きない。濃密すぎる2年間を過ごしたが、野球と介護職を両立させたことは、後に自分の人生を大きく左右することになる。

 その後は徳島インディゴソックスに入団し、最速は155キロにまで成長。かつては「バカにされた」プロ野球選手という夢を掴んだ。昨年10月24日に行われたドラフト会議でホークスから育成6位で指名を受けると、身の回りが落ち着いた年末にハナマウイに挨拶に向かった。そこで見た温かな光景が、今も忘れられない。

「認知症の方だったら僕のことを覚えていない方もいるんですけど。ドラフトを見て、泣いて喜んでくれた方もいたと(施設の方から話を)聞きました。指名後にハナマウイに行くと、自分の顔を見た瞬間に泣いてくれた人もいて……。ハナマウイがあったから僕はプロに行けたんだなと思っています」

 1999年10月生まれ。今年で26歳を迎えるオールドルーキーは、野球ができることを心から幸せだと感じている。「高校も大学もずっと補欠だったんで、今は野球をやれているだけで一番楽しいんです。やれることを全部やって、その結果支配下にいけたらいいなと思ってます」。失うものは何もない。一方で、恩返ししたい人はたくさんいるから、日々の全てを野球に費やし、結果を残そうとしている。

 17日にA組に合流して紅白戦に登板。5人の打者と対戦して、2四球を与えたが無安打の内容だった。「チャンスをいただいた時点でありがたいです。できるなら自分の魅力でもある三振を取って、結果を出したかったです。次に繋がるような良いところも見せることができたし、課題も出たので、次に向けて準備していきます」。優しい右腕も、マウンド上では強気。流してもらった涙を胸に、支配下を掴み取る。

(飯田航平 / Kohei Iida)