LINE検索で無数に出てくる…母への「野球やめたい」 川口冬弥を変えた“1本の電話″

川口冬弥【写真:竹村岳】
川口冬弥【写真:竹村岳】

挫折だらけの経歴…同僚からも「大学行って野球やるん?」

 数えきれないほどの挫折を味わった。「バカにされた夢」を、自分だけは信じ続けた。ソフトバンクは20日、川口冬弥投手の支配下選手登録を発表した。ウエスタン・リーグでは16試合に登板して3セーブ、防御率0.98。18回1/3を投げて19奪三振と、文句のつけようがない結果を残して待望の2桁背番号を手に入れた。不安が自信へと変わった出会い、そして母の言葉――。右腕が歩んできた異色の経歴を追った。

 野球に初めて触れたのは小学校1年生の時だった。「お父さんの“草ソフトボール”が最初です。それで近くのチームに体験に行ったんだと思います」。中学時代に所属していたのは奈良・香芝ボーイズ。当時の監督の母校が、後に門をたたく東海大菅生高だった。親元を離れて上京を決意。「“ザ東京”って感じかなと思っていたんですけど、高校がある場所は田舎でしたね。山も見えたし」。そう苦笑いするが、これが苦しいキャリアの始まりだった。「僕、指を折って数えたことあるんですよ。ピッチャーの中で、自分は“18番手”でした」――。

 100人前後の部員であふれ、高校3年間では背番号をもらうことはできなかった。2軍に相当するBチームでも「試合に出るか出ないか、そのレベルでした」。今では187センチと恵まれた体を生かしたフォームを作り上げたが、当時はまだまだ荒削りだったという。キャッチボールをしても、投げた球が相手の頭上を越えていく。「嫌な顔だって何回もされました」。3年生になり、最後の夏もスタンドで応援。複雑な思いを抱えながらも、仲間のために声を枯らした。

「(高校3年間は)一言では言えないですね。自分が試合に出るイメージが1つも湧かない。同級生で仲良い友達が自分の代で甲子園にいったんですけど『いいな、羨ましいな』って思うのが精いっぱいでした。実際、大学に行った時もプロを目指していたかと言われたら、目指していなかったです。『まだ上手くいかないな』という感じだったのは覚えています」

高校も大学も寮生活…お金はかかるのに「野球は楽しくない」

 城西国際大に進学した後も、試練は訪れた。右肘痛に苦しみ、2年時には顎を骨折。まともに練習することすらできず「野球やめようって、なんなら毎日思っていました」と赤裸々に振り返った。親元を離れて5年目。辛い胸中を、母に打ち明けた。「だってキャッチボールもできないんですよ? 『野球楽しくない』『もうやめたい』って連絡していましたね。LINEって検索機能があるじゃないですか。『やめ』って打ったら、何十件も出てきます」。当時はそれほどまでに、光が見えなかった。

「好きなこと、しい」。母は否定することなく、受け止めてくれた。「高校も大学も寮生活でお金もかかるのに、肝心の自分は野球すらできていない。『何やってんだろ』って、申し訳ない気持ちもあったんですけど」。気持ちの変化は、少しずつ取り組みにも表れていく。本人は「体重を増やしただけ」と振り返るが、4年時には自己最速となる150キロも計測した。

甲子園で観戦した川口冬弥【写真:本人提供】
甲子園で観戦した川口冬弥【写真:本人提供】

 運命を変えたのは大学4年時、進路に迷っていたころの出来事だった。千葉のジム「ワールドウィング」でトレーニングに励んでいると、目の前にシャドーピッチングをしている男性がいた。「野球やってるんですか?」。思わず声をかけた相手が、後に所属する社会人野球のクラブチーム・ハナマウイで投手コーチを務めていた中山慎太郎氏だった。「あそこで声をかけていなかったら、どうですかね。野球はやっていなかったかもしれないです」。

 二人三脚でのトレーニングが始まった。ある日のこと。冬の寒空の下、中山氏はこう言った。「お前、プロにいけるぞ」。川口は「何言っているんやろ」と素直に受け止められなかったが「中山さんからしたら『こんなに基礎的なこともできない選手が150キロ投げるってどういうこと?』みたいな。『ちゃんと体を扱えるようになれたら、プロだって絶対いける』って言ってくれましたし、自分の伸び代を見てくれていたんだと思います」。恩師の言葉に胸が熱くなったことは今でも覚えている。

 ハナマウイで2年目のシーズン、初夏に行われた西武3軍とのオープン戦で「4回を投げて9個くらい三振を取ったんです。その時に初めて『いけるかも』って」。これまで全く見えなかったプロへの希望を感じられた瞬間だった。どんどんと進化を遂げ、パ・リーグ球団からはドラフトの調査書も届いたという。迎えた運命の日、結果はまさかの指名漏れだった。「めちゃくちゃ悔しかったし、落ち込みました」。失意の底に沈んでいた時、その場で手を差し伸べてくれたのも中山氏だった。

赤裸々に打ち明ける…ハナマウイ2年目にはドラフト指名漏れを経験

「ドラフトの時もジムで一緒にトレーニングをしていたんです。中山さんはすぐに励ましてくれて『じゃあ次やることは決まってるやんか』『独立で勝負するぞ』って、悲しんでいた僕に切り替えるための手助けをしてくれました。その日の夜に、自分も大学のコーチを頼ってインディゴソックス(四国IL徳島)の人に電話をしました。その年のドラフトで、徳島から6人プロに行ったんですよ。『テスト受けさせてください』って、伝えました」

川口冬弥【写真:竹村岳】
川口冬弥【写真:竹村岳】

 四国IL徳島時代、自己最速は155キロにまで伸びた。ドラフト会議で「川口冬弥」と名前が呼ばれた瞬間は今でも覚えている。「その前の年は指名漏れだったし、今回も諦めていました。いろんな球団が選択終了していくじゃないですか。それも『ああ、これこれ』みたいな。『来年どこで野球やろうかな』って考えていました」。そんな中で育成6位指名してくれたホークス入りし、プロへの扉を開いた。何度も笑われた夢を、1軍の舞台で実現する“挑戦権”を得た。

「本当にバカにされてきました。『大学行って野球やるん?』『ハナマウイってどこ?』とか。でも、そんなものですよね、自分なんて」

 出会いにも恵まれ、努力で2桁の背番号を手に入れた。ここからがスタートラインだ。「自分が今も野球をやっている意義はそこにある。同じようにレギュラーを取れなくて苦しんでいる選手たちの希望に、自分がならないといけないです」。挫折も試練も乗り越えてきた野球人生。振り返れば、全てがありがたい。

(竹村岳 / Gaku Takemura)