
馬原孝浩編・最終回…明かされた日本Sでの本音
ホークスを離れて13年がたっても、チームや球団への思いは変わらない。元守護神・馬原孝浩氏の胸には、深い愛情が宿っている。ひとつだけ心残りがあるとするなら、2011年の日本シリーズ。最後を締め括ったのは、攝津正氏だった。絶対的クローザーとしてチームを支えてきた自らが、試合終了のマウンドにいない光景を複雑な思いで見つめていた。
「2011年は、様々な要因が重なり、シーズン序盤から状態が上がらない苦しい一年でした」
この年は33試合の登板で19セーブ。前年の32セーブから数字を落とし、本意ではないシーズンだったことは想像に難くない。
一方、この年から先発に転向した攝津氏は14勝を挙げるなど大活躍。日本シリーズでは第3戦に先発し、そして日本一の瞬間にマウンドに立っていた。馬原氏はシリーズ第1戦、第2戦に登板するも、いずれも敗戦投手となり、本来の調子からはほど遠い状態だった。
「最後が攝津だったことは全然良かったです。調子がいい人を最後に起用するのは当然です。僕自身も監督業をやりましたけど、それは常に頭に入れながらやっているんですよ。だから、あの場面で攝津が最後に行ったことは当然のことだと思います」。チームの勝利を最優先する指揮官の采配は理解できた。しかし、心の奥底には別の感情も渦巻いていた。
歓喜の瞬間に「攝津にさせてあげれなかった」
「ただやっぱりね……。攝津が控えめにガッツポーズしたのを見た時には、『悪いことしたな』と思いました」。その言葉には、当時の苦悩と後輩への複雑な思いが凝縮されている。
「日本一になって派手にガッツポーズして喜んで、最後に胴上げ投手になる。それは本当にピッチャーにとって最高の瞬間なんです。華なんですよ。僕はそれが嫌でした。それを攝津にさせてあげれなかったというか、変に気を使わせてしまったなと。どうしようもないことではあるんですけど、それはすごく思っていました」
攝津氏とは2009年の入団以来、自主トレを共にするなど公私ともに親しい間柄だった。「『(自主トレに)参加させてくれ』って言うので、そこから毎年のように自主トレを一緒に行っていました」。だからこそ、その心中をおもんぱかり、申し訳なさが募った。
壮絶な怪我との闘いが原点「自分を実験台に」
プロ入り以来、常に単年契約を貫いてきた。「ダメだったらもうやめる。クビの世界だから、基本的にはずっと単年契約で。複数年って言われても単年だったんです。それが当たり前だろうと思ってやっていたので」。その覚悟が、怪我にも悩まされた不調のシーズンを、より一層厳しいものに感じさせていたのかもしれない。
引退後はトレーナーの道へ進んだ。その原点には、自身の壮絶な怪我との闘いがあった。人的補償でオリックスに移籍した1年目には、腕神経叢炎という怪我に見舞われ、今もなお腕にはしびれが残る。必ず治る――。そう信じ、全国の名医を訪ね、あらゆる治療を試みた。
「手術もして、こんなにボロボロな状態からでも、なんともない体ってできるんだなって。それがちょっと自信になったんです」。懸命な治療とリハビリの末、2014年にはキャリアハイの登板数を記録するまでに回復した。「自分を実験台にして、独自のマッサージとストレッチを作り上げたんです」。その経験と情熱が、馬原氏をトレーナーの道へと駆り立てた。
「恩を感じている」今も変わらぬホークス愛
そして今もなお、その心にはホークスへの熱い思いが生き続けている。「アマチュアで評価されて、最初にプロ野球の世界を知ったのはホークスですし、こうやって引退後も」。ホークスジュニアの監督を務め、自身の息子もホークスジュニアに選ばれるなど、その縁は深く、太い。
「外からではありますけど、やっぱりすごく縁というか恩を感じています。離れてはいるけど、そんなに遠くないって自分は勝手に考えています。チームが低迷すれば気にもなりますし、頑張ってほしいなと思いますしね」
プロ野球選手としてのキャリアの礎を築いたホークスへの感謝も、現在の馬原氏を形作る上で欠かせないものだ。その言葉の端々からは、13年の時をへても変わらぬ、ホークスへの深い愛情が確かに感じられた。【終】
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