
ペドラザ編④引退後も続いた交流
総力を結集して頂点と掴み取った仲間たちとのつながりは、時を経ても切れない。ホークスの系譜は、情に厚い側面も併せ持つ。鷹フルの新連載「鷹を彩った男たち〜ソフトバンクホークス20周年、紡ぐ想い〜」の第1回、ロドニー・ペドラザ編の最終回は、引退後も続いた交流。当時のチームメートたちの素顔を懐かしそうに振り返る。
ペドラザ氏が来日した1999年、ソフトバンクの前身、ダイエーは1989年に福岡へ本拠地を移してから初めてのリーグ優勝を果たした。原動力のひとつは、「勝利の方程式」と呼ばれたブルペン陣の奮闘だった。中継ぎの吉田修司氏、篠原貴行氏、藤井将雄氏らが相手の勢いを止め、クローザーのペドラザ氏につないだ。
特に藤井氏は同年、59試合に登板して3勝1敗3セーブ26ホールド、防御率2.89をマーク。最多ホールドのタイトルを獲得した。闘志あふれる投球スタイルから「炎の中継ぎエース」の異名を取った。ところが、実は熱投の裏で、末期の肺がんが進行していた。中日との日本シリーズにも2試合登板し、日本一に貢献した後、入院。翌2000年、チームの2年連続リーグ優勝を見届けた6日後の10月13日に31歳の若さで亡くなった。
「ホークス入団当初、わからないことが多かった僕を、藤井さんが(同じ救援投手として)助けてくれた」。ともにブルペンを支えた戦友。「本当にいい人だったんだ。亡くなったことを聞いた時は本当に悲しかった。彼は本当にあのチームの重要な部分を担っていたよ」。藤井氏の背番号「15」は正式な永久欠番ではないが、藤井氏が支配下登録されたまま死去した後、親会社がソフトバンクに変わっても、現在に至るまで通算25年にわたって誰も付けていない。
村松氏の息子がホームステイ?
「日本で出会った人の中で一番思い出深い人……選ぶのは難しいなぁ」。そう言うと、次から次へと名前が出てきた。工藤公康、秋山幸二、小久保裕紀、松中信彦、城島健司、井口資仁、村松有人……。思い出を語れば、時間が足りない。
「吉田修司さんとは同じリリーフ投手としてたくさん時間を過ごして、かなり親しかったよ。彼は本当に僕に親切にしてくれたんだ。実のところ、みんなが僕にやさしくしてくれたよ。工藤さん(は投手陣)、そして秋山さんは(野手陣の)リーダーだった。秋山さんの話す英語は結構うまくて、よく話しかけてくれたよ。小久保さん、松中さんとはよく一緒に出かけた。城島さんも、井口さんもいい人だった。村松さんとはロッカーが隣同士で、いろいろな話をしたね」
村松氏とは、引退後も家族ぐるみの付き合いがあった。
「数年前、村松さんが高校を卒業したばかりの18歳の息子を連れて、米テキサス州の僕の自宅を訪ねて来た時があってね。そして村松さんは数日滞在してから帰国したんだけど、息子さんは我が家に1週間くらいいたよ。村松さんが『息子に英語を教えてやってくれ』と言ってね。彼らをここに迎えて本当に楽しかった」とうれしそうに語る。
「半分を福岡、半分を東京で過ごした」
ペドラザ氏は2018年夏に来日。7月16日にヤフオクドーム(現・みずほPayPayドーム)で行われた西武戦で始球式を行った。在籍当時の背番号「50」と「PEDRAZA」のネームが入ったユニホームを羽織り、まっさらなマウンドに立った。この時、チームを監督として率いていたのは思い出深い工藤氏。在籍当時に監督だった王貞治球団会長兼特別チームアドバイザーも、拍手を送ってくれた。
「あの時は日本に10日間程滞在し、半分を福岡、半分を東京で過ごした。同行した妻も子どもも、本当にすごく楽しんでいたよ」
懐の深いファンに支えられながら数多の試合を締め、仲間と喜びあった日々が懐かしい。「もちろん、またいつか日本を訪れて、福岡に行ってかつてのチームメートのみんなに会いたい。(妻と子どもは)桜を見たことがないから、今度僕たちが行くときは桜の花を見に行かなきゃ……」。さすが、日本の最も美しい季節を心得ている。【ペドラザ編・完】
※「鷹を彩った男たち」第2回は、5月中旬の公開を予定しています
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(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)