日本プロ野球の長い歴史で、200勝を達成した投手はわずか24人。日米通算を合わせても27人と、高いハードルであることは間違いない。和田さんにとって残り「35勝」という数字は、どれほど遠かったのか。もし日本でプレーを続けていたら——。その疑問に対し、左腕はサッパリとした表情で言葉を口にした。
「自分の中ではもう『よく頑張ったな』っていう思いしかないです。全然遠かったですし、そこまで考えていなかったので。無理だろうと思っていました」
プロ入りから5年連続で2桁勝利を挙げ、メジャーに挑戦する前年の2011年までの9年間で挙げた勝利は「107」。当時30歳だった。自身は米国での経験を「自分の野球人生にとってかけがえのない時間だった」と振り返るものの、周囲はどうしても“たられば”を考えてしまう。それでも、和田さんの答えはいたってシンプルだった。
「アメリカに行かなければという想定はしないですね。逆にあのままずっと日本にいたら、43歳まで現役をやれていたかどうかも分からないですし。それを言ってしまえば、宝くじで『この番号を買っていたら10億円当たってたのに』と後悔するのと一緒なので。そんなことはありえないじゃないですか。起きていないことを想像しても意味がないので」
あっさりと言い切れるのは、和田さんの“哲学”があるからだ。「プロ野球選手としてどう向き合ってきたかだと思うんです。僕はあまり数字にこだわりがなくて。誰が何勝したかなんて、みんな覚えてない。工藤さんが何勝したかご存知ですか? 斉藤和巳さんや杉内(俊哉さん)が何勝したかご存知ですか? そんなものなんですよ」。
クールな言葉の裏には、熱い思いも当然ある。「杉内が巨人でノーヒットノーランしたとか、WBCで好投したとか。みんなそれは知っているんですよ。記憶に残ることは覚えている。だから、僕はそういう選手になれればいいなと。どういうピッチングをしたとか、どういうトレーニングをして、どういう効果が得られたとか。その道のりや過程のほうが僕は大事だと思っていたので。そこさえ誇れたら、何も後悔はないですね」
プロ2年目に城島チーフベースボールオフィサーからかけられた言葉を今も胸に刻んでいる。「お前、テキトーに投げてんだろ。1年に1回、もしかしたら一生に1回しか球場に来られない人もいるかもしれないだろ」。目の前の数字よりも、目の前のファンを大事にしたい——。その思いは43歳になるまで変わらなかった。
「見に来てくれた人が覚えていてくれるような姿というか。それを見せられたら。記録よりも1人の記憶に残る投球をどれだけ増やすことができたかっていうことが大事だと思うので」。悔いのないボールを投げ続けた左腕。だからこそ、誰からも愛された。
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「ボコボコ打たれて。寝られなかった記憶がありますね」。和田毅が泣いた日——。第4回は2月9日に掲載します。