3年春の甲子園で優勝「それまでは三振も取るタイプだった」
「ボコボコ」に打ち込まれた苦い経験が、自らの可能性を切り拓いた。東浜巨投手が語るシンカーとの出会い。“亜細亜ボール”の意外な真実も口にした。
6日の西武戦(みずほPayPayドーム)では7回1失点で3勝目を挙げた右腕。2回に先制ソロを浴びたが、許した安打はわずか3本。88球でまとめた。「本来なら先制点は与えないようにしないといけないんですけど、すぐに野手の方が同点にしてくれた。マウンドに上がっているからには、全部抑えていこうという気持ちでした」。“伝家の宝刀”シンカーを中心にカーブ、カットボールを駆使するスタイル。先発としての“総合力”が、この日も光っていた。
変化球には投手の個性が表れる。右腕の代名詞といえばシンカーだ。出会いは高3春。「それまではスライダーで三振も取っていくタイプだったんですよ。だから、甲子園で成長させてもらったボールでもあります」。振り返ったのは輝かしい青春時代だった。
嶺井博希と思わず「どうしようか……」
「もともと高校に入った時は真っすぐとカーブしか投げられなくて、そこからスライダーを覚えたんです。もう1つ、シュート系を覚えたいなと思って、今こういうふうになりました。(軌道として)落としにいくような意図はなかったんですけど、自然とそうなりました」
2008年、沖縄尚学高は春の甲子園で全国制覇を果たした。栄冠を手にした右腕だが、大会が開幕する直前の練習試合で「ボコボコに打たれた」そうだ。バッテリーを組んでいたのは、今ではチームメートとなった嶺井博希捕手。「『どうしようか』っていう話をして、『ツーシームを入れていきましょう』となりました。それまでは試合で使う自信がなかったんですけど、せっかく球種として持っているなら使っていこうと」。スライダーとは逆方向に曲がるボールを習得したことで、投球の幅は明らかに広がった。
「いきなり(甲子園で)ぶっつけ本番で投げて、めちゃくちゃ良かったんです。そこから自分がモノにしたという感じなので、甲子園で定着したというか、成長させてもらったボールでもあるんです」。3日連続登板となった聖望学園高との決勝戦では見事な完封勝利をマーク。本番前に感じていた焦りは、わずかな時間で確かな自信へと変わっていた。
九里亜蓮、山崎康晃に受け継がれた“亜細亜ボール”
沖縄尚学高から亜大に進学した東浜にとって、シンカーは入学した時点ですでに大きな武器だった。オリックスの九里亜蓮投手や、DeNAの山崎康晃投手らと練習をする中で「どうやって投げているんですか?」と積極的に質問を受けた。それが後に、プロの世界で“亜細亜ボール”と呼ばれるようになった。
後輩たちに受け継がれている決め球の“初代”が東浜だった。「そんな大層なことではないですよ」と謙遜するが、右腕が4年間で残したものは亜大にとって貴重な財産となっている。
「普通の会話の中で『こうやって投げているよ』って。伝えたことを後輩たちがどんどんモノにしていったって感じなんで、別に教えるメソッドがあるわけではないです。それぞれが代々、自分なりの感覚を伝えていっているみたいな感じじゃないですか? (亜細亜ボールという名称が)なんだか定着しているので、光栄なことなんですけど。僕としてはビックリしかないです」
プロ通算75勝。2017年には最多勝のタイトルを獲得するなど、右腕の投球を支えてきたのがシンカーだ。「真っすぐを投げるのと同じくらい大事にしているボール。どの球も大切なんですけど、それでご飯を食べてきたので。仕事に欠かせないものなんじゃないですかね」。冷静に、ウイニングショットの存在をそう表現した。ずっと変わらない信念を胸に、これからもチームのために腕を振る。
(竹村岳 / Gaku Takemura)