前田悠伍が千賀滉大との2か月を総括 年末年始は渡米…寝られないほど「野球漬けだった」

  • 記者:竹村岳
    2026.01.25
  • 1軍
自主トレを打ち上げて福岡に戻ってきた前田悠伍【写真:竹村岳】
自主トレを打ち上げて福岡に戻ってきた前田悠伍【写真:竹村岳】

■日本と米国…千賀との自主トレを打ち上げて帰福

 鷹フルは自主トレに励むホークスナインの情報をお届けします。今回は前田悠伍投手が登場。千賀滉大投手(メッツ)との練習を打ち上げて、25日に福岡へ帰ってきました。「僕はまだまだショボいです」。海の向こうで目にした“えぐい球”、寝られない日々、大先輩からかけられた厳しい言葉……。「人生で一番練習した」という濃密な2か月間を振り返りました。

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 福岡、沖縄、そして米国――。約2か月間にわたる自主トレを終えて、前田悠はタマスタ筑後に戻ってきた。少し日焼けした表情は充実感に満ちている。「(2024年も)千賀さんと一緒に練習しましたけど、その時は緊張もしていて距離がありました。今はもちろん普通の会話もできるし、少しは近づけたのかなと思います」。背番号41を継承した20歳。憧れの大先輩と過ごした時間は、新たな発見の連続だった。

 昨年11月に前田悠から自主トレへの同行をお願いした。12月2日からタマスタ筑後で本格的にスタートした“千賀塾”。「僕の場合、フォームの全てが悪かった。1球1球ちゃんと動画を撮ってもらって、見直して、また投げて……。ずっとそれの繰り返しでした」。少しでも体への負担を少なくするために、より効率的なフォームを模索し続けた。さらなるヒントを求め、足を運んだのが米国だ。20歳が知った世界の広さ。「自分なんて、ちっぽけですよ」というのは、心からの本音だった。

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続きの内容は

・練習中に「帰れ」、千賀が前田悠を心配した真の理由
・年末年始の渡米で前田が痛感した「自分はショボい」の意味
・2か月の合同自主トレ…間近で見た千賀の厳しい人柄

■前田悠伍に刺激を与えた“名前も知らない高校生”

「11月、千賀さんに『自主トレをお願いします』って言った時に、『年末から年始にかけてアメリカでやるけど、よかったら来る?』と聞かれて。『ぜひお願いします』って言いました。ロッテの種市(篤暉)さんと3人で、1週間ちょっとですかね。野球に関しては本当にレベルが違いました。まだまだ先の世界があるし、種市さんにも『自分はショボいです』って話はしていました。ほんまに底辺です」

 目的は、ノースカロライナ州にあるトレーニング施設「Tread Athletics」で鍛錬を積むこと。動作解析の観点から、自らのフォームと向き合い続けた。驚愕したのは、自身よりも年下の選手が投げ込むボールだった。「誰も知らないような普通の高校生が96、97マイル(155キロ前後)を投げていたんです。『え、何歳ですか?』みたいな。変化球もえぐいし、メジャーにもいっていない選手がそんな感じなら、自分はまだまだやなって。それを知れたのが一番でした」。

 中学時代から日本代表を経験した前田悠。大阪桐蔭高では3度の全国制覇を成し遂げ、ドラフト1位でプロ入りを果たした。エリート道の中心を歩んできた20歳が現在地を知るには、十分すぎるほど大きな“カルチャーショック”だった。「2軍では抑えて当たり前。1軍でもいけると思いましたけど、そんなに甘くなかったです。名前も知らない、プロですらない人の球を見て『もっとやらないとな』って思いました」。課題はしっかりと理解している。さらなる可能性を知った左腕は、目を輝かせながら米国の時間を振り返った。

 英語は正直、得意ではない。語学面では苦労したが、食事面は“ノープロブレム”だったそうだ。「向こう(米国)に行った初日、日本でいうサイゼリアみたいなところに入ったんです。パスタを頼んだんですけど、1人前が3人分くらいの量で……。吐きかけていました。それでも、全部美味しかったですよ」。日本で新年を迎えた瞬間には股関節のトレーニングをしていた。「アメリカがまだ(12月)31日の午前10時とかだったんですよ。種市さんと『日本は年越しやのに、俺らは練習やな』って話していました」。笑いながら振り返った思い出も、充実した証だった。

タマスタ筑後で自主トレする千賀滉大と前田悠伍【写真:竹村岳】
タマスタ筑後で自主トレする千賀滉大と前田悠伍【写真:竹村岳】

■寝られなかった1か月…米国では時差ボケも経験

 帰国すると、すぐさま沖縄・宮古島へ。温暖な離島で、徹底的に技術練習を積んだ。起床は午前7時。アップを済ませるとウエートトレーニングに励み、ボールを使ったメニューへと入っていく。全てを終え、夕食を取るのは午後6時ごろだった。「フォームの全てが悪い」と言うほど、課題だらけだった左腕。毎日を全力で過ごしていた中で、思わぬ“症状”が身体を襲った。

「お風呂に入ったりしていたら、もう夜の7時とかじゃないですか。身体はもちろんですけど、めっちゃ考えるから頭も疲れているんですよ。アメリカから沖縄で過ごした1か月はなかなか寝られなかったですね。瞬きしたら2、3時間経っているような感覚でした。一晩を通して眠れたことがなくて、それくらい野球漬けだったと思います」

 自室に戻ると、疲れのあまりベッドに横たわる。気がつけば数時間が経ち、何度も“寝落ち”を経験した。宮古島である日、千賀から「帰れ」と言われたことがある。「最終クールくらいだったかな。僕がそんな状態だったので、『1回帰ってちゃんと寝て、リフレッシュしてからまたおいで』って」。突き返されたわけではない。疲れ切った姿を心配され、休息の時間を与えられた。「ほんまに人生で一番練習しました」というのも、偽りのない本音だった。

■2か月で知った千賀の人柄「それだけで嬉しいから」

 2024年12月に千賀と自主トレしたのはわずか3日間だった。2か月という長い期間をともにして、深く知った人柄。先輩の言葉から伝わってきたのは、厳しさと愛情だった。

「千賀さんは、僕も種市さんも大竹(風雅)さんのことも、めちゃくちゃ考えてくれていました。僕らがブルペンに行ったら必ず見にきてくれますし。とても厳しいですけど、その中にも愛があるというか。『本当に上手くなってほしい』『ここに来ている3人が成長してくれたら、それだけで嬉しいから』と言ってもらったので。飛行機やその他のことまで、たくさんの手配をしてもらいましたし。千賀さんには本当に感謝しかないです」

 夕食で卓を囲みながら、全員でスマートフォンを見つめる。画面に映っているのは、メジャーリーグで活躍するトップクラスの選手たちだ。「『いい球を投げるピッチャーは、ここができているよね』って。ご飯の時はずっとそんな感じで、野球のことしか考えていなかったです」。課題を痛感し、多くの収穫を得た2か月間。「とにかく思ったのは『絶対に上に行ったる』ってことですね。燃えましたし、もっともっと野球が上手くなりたいです」。数々のヒントをくれた千賀のためにも、ホークスの激しい競争を必ず勝ち抜く。

 年越しは米国で迎え、1月に行われた「20歳の集い」にも出席しなかった。春季キャンプが始まるまで、残り1週間。足元は絶対に見失わない。「もう3年目で、勝負の年なので。1軍のローテーションで投げたいし、新人王の可能性もまだ残っている。結果的にそこが取れたらベストかなと思います」。もっといい投手になりたい――。千賀滉大前田悠伍、共通する思いがこれからも2人を突き動かす。

(竹村岳 / Gaku Takemura)