プロの原点となった屈辱のマウンド
鷹フルがお届けする武田翔太投手のインタビュー、第4回のテーマはプロ野球人生の礎となった“ある登板”の記憶です。韓国の地で味わった屈辱的な大炎上……。倉野信次1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)との逸話、そして新天地SSGランダースとの不思議な因縁に迫ります。
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どんな一流選手にも、キャリアを決定づける「転機」がある。武田にとってそれは輝かしいマウンドではなく、遠征先の韓国で味わったプロ初の“大炎上”だった。後にホークスのエース格にまで上り詰める右腕がそのポテンシャルを解放したのは、投手コーチの怒声と、自らの「諦め」がきっかけだった。
それは3軍に帯同していたプロ1年目の5月。韓国遠征での試合に先発した武田は、初回にいきなり7点を失う大乱調。試合を壊してしまい、19歳の心も折れかけていたその時だった。ベンチでかけられた言葉は“慰め”ではなく、当時3軍の投手コーチを務めていた倉野信次コーチからのまさかの宣告だった。
「おまえが最後まで投げろ」――。
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続きの内容は
・初回7失点の絶望からなぜ152キロが出たのか
・3者連続三振を生んだ「これじゃね?」の具体的な感覚
・新天地SSGとの14年越しの「壮大な伏線」の真相
初回7失点からの完投指令
初回を終えた時点で倉野コーチから喝を入れられたが、2回にも2点を失った。再び向けられた怒声に、武田の集中力は完全に切れた。「ちょっとやる気がなくなってしまって、とりあえずコントロールだけ気をつけて投げよう、みたいな」。しかし、皮肉にもこの“諦め”が眠っていた才能を呼び覚ますことになる。
完全に力が抜けた状態から投げ込まれたボールが、思わぬ事態を引き起こす。球場のスピードガンが「152キロ」を表示し、両ベンチがざわつき始めたのだ。
それまでの武田からは考えられない球速。「え? なんで?」。投げている本人ですら何が起こったのか理解できなかった。しかしそれが後に66勝を積み上げるための礎になった。「力を抜くこと」を初めて体感した瞬間だった。
新天地とのまさかの因縁
試合は続いた。感覚はどんどんと研ぎ澄まされていく。3イニング目からは別人のように立ち直り、ゼロを並べ続けた。気づけば奪った三振は2桁に達していた。「5イニング目くらいから感覚を覚えて、これでもっと力入れたらどうなんだろうって思って投げたら3者連続三振。『これじゃね?』ってなりましたね」。
最終的には160球近くを投げ抜いたこの登板は、最高の学びの場となった。この試合を境に、ルーキー武田の快進撃が始まる。帰国後、すぐに2軍へ昇格。2軍でも4試合連続で7回を1失点以下に抑える投球を見せ、一気に1軍の舞台へと駆け上がっていった。韓国での“あの日”がなければ、その後の飛躍はなかったかもしれない。
奇しくも韓国で対戦した球団は、武田が契約を結んだSSGランダースの前身であるSKワイバーンズだった。14年の時を経て、プロとしての原点を刻んだ地が、新たな挑戦の舞台となる。あの日を「忘れたい記憶」と武田は笑うが、まるで長い時間をかけた壮大な伏線だったかのようだ。武田翔太の新たな野球人生が、不思議な縁に導かれて幕を開ける。
悔し涙は「記憶から消した」 14年間貫いた笑顔という信念…武田翔太を変えた1冊の本
鷹フルがお届けする武田翔太投手のインタビュー、第3回のテーマは「最初から最後まで笑顔を貫いた理由」です。韓国プロ野球・LLGランダーズへの移籍が決まった右腕。中学時代に出会った“偉人の名言”が、唯一無二の姿を作り上げてくれました。 続きを読む
(飯田航平 / Kohei Iida)