“根性”を叩き込まれた雁ノ巣の記憶
ホークスを去る武田翔太投手に迫る連載の第2回。今回のテーマは、その精神的な強さを支える「根性の原点」です。14年間のホークス生活で「このプレーが一番覚えている」と唯一、脳裏に鮮明に焼き付いている場面がありました。それは、2020年9月5日のロッテ戦。命の危険すらあった衝撃のピッチャー返し。なぜ絶体絶命の状況でマウンドに立とうとし続けられたのか。ホークスを去る今、そのルーツとなった猛練習の日々を初めて明かします。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ホークスで過ごした14年間。2桁勝利を達成した歓喜、マウンドで幾度となく味わった緊張と高揚。しかし、武田翔太投手の脳裏に「このプレーが一番覚えている」と唯一、鮮明に焼き付いているのは、輝かしいシーンではなかった。それは、一歩間違えれば命すら脅かしかねない、衝撃的な瞬間だった。
「投げた球がバットに当たってから、僕の右の肋骨に飛び込んでくるまでの時間が、コーヒー作って一口飲んでテーブルに置けるくらいの時間だった」
そう語ったのは、ロッテの中村奨吾のピッチャー返しが武田を襲った場面。コンマ数秒の時間が、右腕にはまるでスローモーションのように見えていたという。しかし、肋骨に打球を受けながらも打球を処理。「そこでアウトにしたのが僕らしいなと思う」。ホークスを去る今、初めて明かされる“根性”の原点に迫る。
会員になると続きをご覧いただけます
続きの内容は
・彼の根性を叩き直した倉野コーチの「一言」とは
・トレーナーが武田を制止した「命の危険」とは一体何か
・千賀も経験した雁ノ巣での「腹筋背筋〇〇回」の地獄
打球は右肋骨の最下部を直撃した。横隔膜は打撲により痙攣し、呼吸ができなくなった。「死んだと思った」と振り返るほどだ。一旦ベンチに下がるも、マウンドに戻ろうとした。
「落ち着いたからいけるかなって思ったんですど、もしかしたら折れていて、肺に刺さるかもしれないと言われました」
トレーナーの制止がなければ、そのまま投げ続けていたかもしれない。試合後、スマートフォンには安否を気遣う連絡で画面が埋め尽くされていたという。
理解し合えた本質…「やべー、抜けない」
なぜ、これほどまでの状況でなおプレーを続けようと思えるのか。その精神力の源を問うと、笑顔で1人の人物の名を挙げた。
「いや、やるよね、そう育っているから。そりゃプロに入って最初のコーチが倉野さんだったらやるよ。すべては倉野さんのせい(笑)」
武田にとって、プロのとしての精神的な土台を築き上げた大恩人が倉野信次1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)だ。武田のルーキーイヤーは3軍の投手コーチを務めていた。
「倉野さんは僕が抜いているのがすぐわかる。『本気でやってねーなこいつ』って。それを見つけた瞬間にガンって言ってくるから、『やばい、抜けない』って」。互いの本質を理解し合う師弟関係。根性を叩き直された。
記憶に残る「雁ノ巣」での日々。思い出すのは猛練習のことばかりだ。
「だって腹筋背筋が毎日2000回ですよ」。今では信じられないような練習量が、当時のファーム選手には課せられていた。千賀滉大(現メッツ)ら、のちに1軍の主力となる投手陣は、その過酷な環境で心身を鍛えられたという。だからこそ、揺るぎない精神力を手に入れたのだと、右腕は感謝の言葉を口にする。
ピッチャー返しという絶体絶命のピンチですら、心が折れなかったのは、この強烈な日々があったから。むしろ、その体に染みついた“やるしかない”という精神が、打球をアウトにし、気持ちをマウンドへと向かわせた。スローモーションに見えた一瞬は、武田翔太のという“根性”を象徴するワンシーンとして記憶に残っている。
【独占】武田翔太が激白 2桁勝利から激変…感覚が狂った決定的な瞬間「めっちゃ悩んでいた」
鷹フルは、ソフトバンクから戦力構想外通告を受け、韓国プロ野球・SSGランダースへの移籍が決まった武田翔太投手をインタビューしました。第1回のテーマは、苦楽をともにした“相棒”でもあるカーブについて徹底的に紐解いていきます。“魔球”が生まれた意外な理由、そして感覚が狂った決定的な瞬間――。「めっちゃ悩んでいましたよ」。今だから打ち明けられる苦悩を口にしました。 続きを読む
(飯田航平 / Kohei Iida)