
20年前の“事件”…野球人生を大きく変えた「一球」
20年がたっても、今なお忘れられない瞬間だ。2005年6月2日、甲子園球場での阪神戦で金本知憲氏に頭部死球を与えて危険球退場――。ソフトバンク・三瀬幸司氏の野球人生が大きく変わった一球だった。
28歳でプロ入りし、1年目から新人王と最優秀救援投手のタイトルを獲得。バラ色の未来が待っていたはずだったが、オフにオーバーワーク気味のトレーニングをこなしたことで歯車は狂い始めていた。そんなさなかに“事件”は起きた。
「『やってしまった』っていう思いしかなくて……。頭が真っ白になっていました」。多くのプロ野球ファンの記憶に残るあのシーン。左腕の心身に何が起こっていたのか。三瀬氏は静かに口を開いた。
「普段なら絶対にあんなボールを投げるわけないって感じだったので。本当に今まで経験したことがないくらい(スライダーが)抜けて。(ボールが)どこへ行ったか、わからなかったんです。ポンと抜けちゃって、『ああ……』ってなりました」
常に悩み続けていた精神状態が、マウンド上での投球に影響した。「気持ちが病んでいるから、あそこにいっちゃったというか……。もう不安しかなかったです」。当時の甲子園を包んだ怒号の嵐も、耳には届いていなかった。
スタッフを通して届いた金本氏の言葉
翌日、スタッフを通して金本氏から「俺は大丈夫だから」との言葉をもらった。「すごく救われました、気持ちの部分では」。胸のつかえは取れたはずだった。それでも、その後も不安定な投球は変わらなかった。
「悩みながら投げているっていうのが、ピッチャーとしてよくなかった。その状態で何かきっかけがあればいいんですけど、もっと悪くなるきっかけがあのデッドボールだったと思いますし……。余計に悩むようになりました」。7月4日の楽天戦(ヤフードーム)では3連続四球を与える大乱調。王貞治監督に言葉をかけられたという。
「明日から3日間くらい休んでいいから。海にでも行ってリセットしてこい」。告げられたのは2軍降格だった。「ファームに行っても、翌日から普通に練習してしまいました。気持ちの部分もあまり、リセットという感じではなかったです」。その後に1軍再昇格を果たし、多少のキレやスピードは戻ったが、1年目の姿からはなお遠かった。
対戦したい打者は「金本知憲」だった
「やっぱり世間には『あれが原因で三瀬はダメになった』と言われていたので。『そんなことない』っていうのも言いたかったですよね、当時は」。プロ3年目以降、交流戦で対戦したい打者を聞かれれば、毎年のように「金本知憲」の名前を挙げ続けた。
「あの人と対戦したら、なにか取り戻せるんじゃないかって。自分がしっかりとした形でインコースに投げて抑えられたら……という思いはあったので、対戦したかったんです」
その後、何度か金本氏と対戦する機会はあった。あるオープン戦では、当時の秋山幸二監督が意図的にワンポイントリリーフとして送り出した。「『お前にここで投げてもらわんと困るから、しっかり投げて払拭してこい』と言われてマウンドに出されましたね。その打席は抑えたと思うんですけど」。周囲の思いに懸命に応えようとしたが、現実は残酷だった。
3年目以降は“自慢の宝刀”にも異変が起きた。「腕は振れるようになったんです。でも、左バッターの内角へのシュートが今まで通りにいかなくて。引っ掛けて中に入ってしまうことが多くなり、使いづらくなっていきました。今までは何も考えずに投げられていたので、それが一番苦しかったんです。それを引きずっていましたね」。
様々な要因が重なり、大きなズレが起きていた三瀬氏の投球。その後も1軍と2軍を行き来するシーズンが続いた。そして7年目。シーズン途中に発表されたのが、中日へのトレード移籍だった。
【第4回へ続く】
(森大樹 / Daiki Mori)