鷹入団を決めた瞬間…“家族会議”でかけられた言葉 ヘルナンデスの原点、母の教え

ソフトバンクのダーウィンゾン・ヘルナンデス【写真:竹村岳】
ソフトバンクのダーウィンゾン・ヘルナンデス【写真:竹村岳】

実は「15歳までサッカー」…ヘルナンデスが明かす異色の経歴

 ホークスに加入して2年目。絶対に欠かせない存在になってみせた。家族が快く背中を押してくれたから、自分は今ここにいる。

 ダーウィンゾン・ヘルナンデス投手は今季、48試合に登板した。3勝3敗3セーブ、21ホールド、防御率2.25。48イニングを投げて72奪三振という驚異的な数字を残した。昨年7月に入団した左腕は、4年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。その原動力になってきたのは、ともに過ごす家族の存在だった。母からの教えを忘れることなく、プロのキャリアを積み重ねてきた。

 1996年生まれで、ベネズエラ出身。メジャーリーグでも通算91試合に登板したが「15歳まではサッカーをやっていました」という意外な経歴を持っている。ダイナミックなフォームから繰り出す150キロ台の直球が最大の武器。5月7日の日本ハム戦(みずほPayPayドーム)で来日初勝利を挙げて「率直に嬉しかったです。あとはやっぱり最初の勝利という話はどこでもするので。『日本での最初の勝利はここだった』という話ができるようになって、それはよかったです」と笑顔で振り返る。

 そんなヘルナンデスが生まれ育ったベネズエラの地元は「田舎の田舎の田舎です」という。広域な畑を所有しており、とうもろこしなどを栽培。敷地内には牛も歩いていて、馬の背に乗ることも日常の一部だった。「ちゃんとしたピストルを手に持ったこともありますよ」。自然や動物と触れ合いながら、伸び伸びと育ってきた。オフシーズンには必ず帰省するといい「自然との関係はすごく大事です。ゆっくりと息を吸ったり、いろんなものを見ると小さいことにも気がつく。そんな感覚を大切にしています」と頷いた。

 3人兄弟の末っ子。家庭環境については「決して貧しくはなかったんですけど、お金があるわけではなかったです。お母さんが自分たちのためにできることを全てやってくれて、教育を受けてきました」。幼い頃から父親はいなかった。女手一つで育ててくれた母の存在が、自分を突き動かしてきた。マイナーリーガーだった下積み時代、14時間のバス移動も経験したが、どんな時も母の言葉を忘れることはなかった。

「お母さんが唯一教えてくれたのは、物事に価値を持たせるためには、犠牲が必要。何かを犠牲にしなければ、何かを得ることはできないということでした。辛い時こそ努力して、諦めないということを教わりました」

 メジャーで登板を重ねる中、ホークスからオファーが来た。海を渡る決断をした。自宅のリビングで愛妻と膝を突き合わせ、覚悟を告白した。「家族の了解を得てこっちにきました。奥さんとは『日本に行ってもいいけど、自分たちと過ごしてほしい』という話をしました」と明かす。メディカルチェックを済ませて、ホークスの一員となった。自分だけではなく、家族も福岡での生活が好きになっていた。

「去年(2023年)も2か月間、家族が来てくれたんですけど、相当気に入ってくれた。『帰りたくない』と言っていたんですけど、(米国の)家のこともあったので帰ってしまったんですけどね。来年以降、もしこっちにいられることになれば、一緒に家族と来て、子どもたちも学校に行かせることができたら」

 常に登板に備える中継ぎ陣にとって、毎試合が仕事。「休みの時は食事に行ったり、遊びに行ったり、モールに買い物に行ったり、水族館にも行きました。仙台や大阪、遠征の時はその街を知ってもらうために遊びにも行きますし、そこには子どもたちも連れて行きます」と貴重な休日の過ごし方を笑顔で明かす。大阪にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンを訪れた時は「さすがに疲れたよ……」と話したが、父として家族サービスを欠かさないナイスガイだ。

 ポストシーズンでも無失点を継続している。今オフで契約が切れるだけに、去就にも注目が集まるだろう。「来年、再来年も、最高の投手になりたいです。日本で投げていることを証明したい。それが個人的な目標です」。家族の支えを力に変え、何度でも左腕を振る。

(竹村岳 / Gaku Takemura)