泉圭輔が独占激白 ボロボロだった“10.2”、ヤケ酒…5年間の全てと1996年組に伝えたい感謝

交換トレードで巨人に移籍することになった泉圭輔【写真:藤浦一都】
交換トレードで巨人に移籍することになった泉圭輔【写真:藤浦一都】

「一番しんどかった」「自分が頑張る理由」ドラフトからトレードまでの全て

 ソフトバンクは6日、泉圭輔投手が高橋礼投手とともに、交換トレードで巨人に移籍することを発表しました。鷹フルは泉投手を単独でインタビュー。ホークスでの5年間を語ってもらいました。今だから明かせる“10.2”の全てや、挫折、ヤケ酒……。ドラフト会議での指名から、今回のトレードに至るまでの5年間、そして、感謝の思いは1996年組の同級生へ――。泉投手が今抱く、新しい夢に迫りました。

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 この度、トレードで読売ジャイアンツさんに移籍することになりました。5年間という短い間ではありましたが、本当にいい時も悪い時もたくさん励ましていただきまして、本当にいい5年間だったと思います。自分のSNSにも書きましたけど、何を書こうかなと迷いました。でも、いっぱい書いてもあれだと思って、簡潔に述べました。ファンの皆さん、本当にありがとうございました。

 トレードが発表された日は、自分も公式の発表の時間は聞いていましたけど、何時に報道とかが出るとかは知らなかったんです。気になって、あまり寝られなくて、朝の5時半くらいには起きちゃいました。目が覚めたら、もう色々ニュースに上がっていたりして、新聞の紙面の写真が出てきたりして……。いろんな人の意見を見ると、驚きが多いのかなって、朝から感じていました。

 そこから筑後に行って、挨拶を一通りしました。挨拶をして、自分が出ていく事実は変わらないんですけど、みんな「最後」だという感じはあんまりしませんでした。いつも通りの筑後の練習みたいで、久々に顔を合わせた人もいました。「今までありがとうございました」って会話もありましたけど、日常の会話もいつも通りあったので、不思議な感じというか……。みんなユニホームなのに自分はスーツですし、違和感を覚えました。

(福岡市内に)帰ってきてから柊太(石川投手)とご飯に行きました。先輩ですけど、呼び捨てで呼ばせてもらっています。柊太は一番お世話になった先輩です。ご飯に誘ってもらっていたんですけど、このタイミングで入れてもらいました。深い話はしていないですけど、元からそんなにしないので。でも色々と東京のこととかを聞いたりして、最後に「ありがとうございました」とは伝えました。その辺も違和感がある1日でした。

 移籍の挨拶なんてもちろん初めてでしたし、普通のはずなのに、普通じゃないみたいな……。あまりこういう感情になることもないので説明しづらい部分ではあるんですけど、違和感というか、ぎこちなさというか、よくわからない感情でした。


筑後にスーツで挨拶に来る泉(右)【写真:米多祐樹】

 ドラフト会議で指名してもらった時のことは今でも覚えています。自分のプロ野球生活がスタートした瞬間ですから。大学にいて、結局、6位指名でしたけど、地元のテレビ局がいっぱい来てくれて会見しながら見ていました。「泉圭輔」って名前が呼ばれる瞬間まで待っていて、正直、5位が終わった時点で「来年社会人か」と思っていました。「それも人生だな」とか思いながら、半分諦めモードだったんですけど、指名があったので嬉しかったですね。

 大学時代は「すき家」でバイトもしていました。そんなに泥臭く(野球を)やっていたつもりもなくて、正直、野球よりもバイト優先の生活だったりもしました。逆に、自分がプロになってもいいのかなって思ったりしましたけど、なったので、これは自分の実力だと思うようにしました。今でも「すき家」のレジ打ちは覚えているので、基本的にできると思いますよ。チーズ牛丼に明太マヨネーズと、温泉たまごをぶちまけるのが好きでした(笑)。

 ドラフトでは、いろんな球団から「指名はかかるとは思うよ」っていう話はされていました。上位かもしれないし、下位かもしれないけど、と。結果は6位だったんですけど、ホークスでよかったなって今でも思います。5年が経って、起用してくださった首脳陣はもちろん、チームメートも先輩後輩も、関係なく本当にいい人に恵まれたと思うので。そういう意味では本当にホークスでよかったです。

 プロに入って最初の春のキャンプはB組でした。その年の支配下の新人投手で僕だけがB組スタートだったので、そこがプロに入って最初の挫折でした。甲斐野(央投手)、板ちゃん(板東湧梧投手)、杉山(一樹投手)、奥村さん(政稔投手)……。あれはちょっとこたえましたね。奥村さんも即戦力だし、他の3人もポテンシャルはやっぱりすごかったので、僕はまだまだだなって。メディアの取り上げ方も全然違って、その4人がA組スタートって言うので、新聞の1面に出ていたのを見て、なんとも言えない感情になりました。


笑顔を見せる泉圭輔【写真:竹村岳】

 ずっと2軍でしたけど、ずっとゼロで抑えていて、そのまま1軍に行けって言われて、初勝利までは“気がついたら”って感じでしたね。初勝利は4月22日(オリックス戦)ですか。記念球は今でも実家にあると思います。右も左もわからない状態でプロに入ったので、ガムシャラってワードが合っているのかな。わからないからやってみようって感じで、初々しさってものが当時はあったのかなと思います。

 2020年はキャンプから1軍で、絶対にA組でキャンプをスタートするっていうのを目標にしていました。それをクリアして開幕すると思ったら、コロナで延期になって。6月に開幕してからは、1年間ずっと1軍にいられました。前の年の「自分だけB組スタート」というところから、下馬評を塗り替えるというか、俺でもこんなにやれるんだって自信になった1年でした。

 2021年は、前の年に頑張ったのもあって、またキャンプもA組で、開幕も1軍に入れました。前半はいいところで使ってもらったんですけど、今までめちゃくちゃいいところでは投げさせてもらっていなかったので、急に「勝ちパターンで行くぞ」ってなると、自分の体力と気持ちが持ちませんでした。結局、前半しか1軍にいられなかったので、そういうのを実感した年でした。

 今でも覚えているんですけど、2021年の交流戦で2週連続で負け投手になったりもしました。その時は「やっちゃった」って思いながら、1人でコンビニに行って、お酒を買ってめっちゃ飲んだのを覚えています。5%の、500ミリリットル缶のレモンサワーとかだったかな。その時は体力的にも、勝ちパターンを任されても負け投手にもなって、色々考えて寝られなくなったりもして、しんどい時期ではありました。2021年で一番しんどかったのは交流戦くらいの時期でしたね。


PayPayドームで投げる泉圭輔【写真:藤浦一都】

 2022年は、スタートから病気で遅れてしまったので、そこも印象に残っています。後半戦だけですけど、1軍に上がって、結構なペースで投げました。しんどかったですけど、結果がついてきていたので、まだやれる、まだやれると思ってやっていて、最後の最後に……。10月2日のロッテ戦の前くらいですかね、体がしんどくなってきていたのはありました。そして、最終戦で力尽きるという……(苦笑い)。

 実は肘だけじゃなくて肩も腰もしんどかったんです。痛いとかじゃないんですけど、ただただ体が疲れているっていう……。肩は毎日作っていたので。その時はまだ疲れているだけでしたから、まだ寝られたんですけどね。自分が負け投手どうこうっていうのはなかったので、そんな状態ではありました。

 10月2日は優勝がかかった試合で、2点差の6回での登板でした。前半は板ちゃん(板東)が5回までゼロに抑えて、後半にどう繋いでいくのか大事なポイントでした。5回はグラウンド整備も入るタイミングで、なかなか投手にとっても、リリーフであっても難しい場面。自分は後先をあまり考えずにその瞬間に集中して投げるタイプだったんですけど、さすがにその日は「ああやばい、ここで点を取られたらどうしよう」という感情にはなりました。状況が状況でしたし、前の日(西武戦)に藤井(皓哉投手)が打たれたのもあったので……。

 そういう気持ちの難しさがあるにはありました。あそこをゴールだと、あの時は思っていなかったですけど、でも、やっぱりあそこで投げられるのは、その中でも限られた人間。そういう意味では、ゴールではないですけど、そこまでシーズンの成績も踏まえて行けたのはよかったのかなって思います。結果は置いておいて、ですけど。


泉圭輔【写真:荒川祐史】

 今年はやり返そうという思いがあった中で結果がなかなか出なくて、ファンの方々に申し訳ない気持ちはあります。今回トレードになって、感謝を伝えるとしたら、やっぱり同級生ですかね。今年は特に僕だけ2軍にいるみたいな状況もあったので、頑張ってほしい気持ちと、みんなが頑張っている場に僕がいない現実に、感じるものもありました。みんなが頑張っているのに……と思っていましたけど、そう思わせてくれる存在だったとは思います。

 それこそ笠谷(俊介投手)が(1軍と2軍を)行ったり来たりしている時期があって。1軍に行くのは全然いいんですけど、行くことでまた自分が置いていかれているっていうのはすごく感じていました。自分が早く行かないとっていう思いと、誰かが落ちてくることでちょっと救われている自分と、その葛藤みたいなものはありました。その辺の心境というのは難しかったですね。

 ただ年齢が同じなだけですけど、その中でも僕らで言えば1996年っていうコミュニティの中で切磋琢磨して、チームの中心になれるようにやってきていました。良くも、悪くもですね。自分が頑張る理由というか「みんながいるからやらないと」と思わせてもらったので、なかなかそういう存在っていないと思います。

 同級生で、特に印象に残っている出来事というよりは、たとえ誰かが打たれようが打てなかろうが、ミスしようが何をしようが、みんな変わらずに毎日接してくれました。そういうのは今考えるとありがたいですよね。今日なんかも、筑後でみんなに挨拶しても、いつも通りに「頑張ってね」って感じだったので。変に悲しくなるよりはいつも通りの方が僕的にはいいと思うので、そういう点では、いつも変わらず接してくれたことは、今になって大事なことだったなって思います。


1996年組の集合写真【写真:本人提供】

 これからも関係は変わらないですけど、一番いいのはみんなと1軍で対戦するのが理想というか目標です。僕はジャイアンツに行くわけですから、戦うチャンスといえばオープン戦と交流戦と日本シリーズだけ。オープン戦は状況にもよりますけど、交流戦と日本シリーズは、僕もホークス相手に投げたいと思います。日本シリーズっていう日本一を決める舞台で対戦できたら一番いいですね。

 1996年組だけじゃないですけど、ホークスっていうチームを離れた身としては、日本シリーズでホークスと優勝を争うっていうのは1つのゴールだと思います。日本シリーズはメンバーには入っていましたけど、まだ投げたことはありませんから。

 最後に、5年間でしたけど、チームメートもスタッフの方々も、僕は周りに恵まれました。5年間、いい時間を過ごさせていただいたと思っています。ファンの方々もそうですけど応援してもらえたら嬉しいですし、ジャイアンツに行っても僕は僕なので。やるべきことをやって、ホークスと戦う然るべきチャンスに向けて頑張るだけだと思うので。僕の活躍も気にかけてもらえると嬉しいと思います。

【余談】

 鷹フルにも結構な頻度で出させてもらっていたので、個人的にはありがたかったですし。他のメディアにはない深掘りというか、選手のコメント、監督のコメントもそうですけど、ある意味、選手と首脳陣を繋ぐ役割に鷹フルもなっていたと思います。僕はお金を払って見る価値があると思います(笑)。これから、1996年組がもっと活躍してくれると思うので、そこに精力を注いでもらって、いろんな企画を見せていただきたいなって思いますね。

(竹村岳 / Gaku Takemura)