大阪出身も親元離れ鹿児島へ、大学3年時にはTJ手術 ドラ5松本晴の野球人生

新入団会見に臨んだソフトバンク5位・松本晴【写真:福谷佑介】
新入団会見に臨んだソフトバンク5位・松本晴【写真:福谷佑介】

松本を支えた父の存在「駄目なことがあったときは厳しい言葉を」

 12月5日に行われた新入団発表会見で、プロ野球選手として節目の時を迎えたソフトバンクのルーキーたち。今秋のドラフト会議で指名された支配下6選手、育成14選手が、初めてホークスのユニホームに袖を通した。和田毅投手、杉内俊哉投手(現巨人3軍投手チーフコーチ)を目標に掲げたのは、ドラフト5位の松本晴投手(亜大)だ。

 最速145キロと決して球速が速いわけではないものの、球威とキレが武器の左腕。カーブ、スライダー、カットボール、ツーシームを操る。欲しいタイトルとして挙げたのは、最多勝などではなく「最高勝率」。その理由を「自分が投げた試合で毎試合でもチームの勝利に貢献できたらなという風な思いから」と語った。

 プロへの道筋を示してくれたのは父。甲子園出場経験もあり、松本は幼少期から厳しく育てられた。「自分に厳しく、とことんやれと常日頃から言われていました。しっかりと父親の言葉、教育は今の自分を作ってくれたものだと思います。怒鳴るようなことは少なくて、冷たく接せられるのが怖かった。小学校の頃は怖くて、あまり話せなかった思い出があります」と振り返る。

 大阪府出身ながら、高校は鹿児島の樟南高へ進んだ。中学校1年生の時に、甲子園で戦う樟南高を見て「このチームで投げたい」と決心。1歳上の兄も同高に進み、2年時には兄弟バッテリーとしても注目された。「鹿児島で野球している時も電話をしたりしていました。親元を離れてからはすごく優しくなったんですけど、自分が何かダメなことがあったりとかしたときは厳しい言葉をかけてくれました」。いつも心の支えになったのは父の言葉だった。

 長く苦しいリハビリ生活を経てのプロ入りだった。亜大では1年春からリーグ戦に登板したものの、3年春に左肘を異変が襲った。靭帯を損傷し「痛みで全く投げられないような状況でした」。トミー・ジョン手術を受け、1年近いリハビリ生活を強いられることになった。

「どちらかというと保存療法で治す選択を取ろうかなと考えていたんですけど、いろんなトレーナーの方に話を聞いたり、自分で調べていくと、復帰が結果的に早くなり、その後も安定して試合で投げられるようになるには手術を選択した方がいいと」。プロ入りを目指していた大学3年生にとっては勇気のいる決断。それでも「しっかりリハビリをすれば、1年後に結果を出してプロの世界へ入れるかな、と。とにかく今自分ができることを精いっぱいやろう」とリハビリに励んだ。

「いろんな本を読んだり、勉強したり、フォームをもう一度見直して、肩肘に負担のかからないフォームを目指して、自分なりにできることをやってきた。手術する前と比べて、成長できたなと思います。最速自体は変わっていないんですけど、安定して高い出力で投げられ、平均球速もしっかりと上がってきている」。1年弱のリハビリを経て4年春に戦列に復帰。春と秋のリーグ戦では9試合に登板し、プロ入りへと繋げた。

 ドラフトでソフトバンクから5位で指名されると、父は「すごく喜んでくれた」という。同時に「プロの世界で戦っていく上で、すごい厳しい世界なので、野球に集中してやれるだけやれと言われました」とも助言を受けた。父からの教えに応えるため、そして恩返しのため、松本はプロでの躍進を目指す。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)