滲んだ焦り「このまま終わるんじゃないか」 痛み止めに注射…“無理”が呼んだ代償

加藤伸一氏【写真:山口真司】
加藤伸一氏【写真:山口真司】

加藤伸一氏は1991年4月21日の日本ハム戦で550日ぶりに勝利投手に

 鷹フルの連載「鷹を彩った男たち」。加藤伸一氏の第9回は「手術決断」。1990年に右肩痛を発症して1年間を棒に振った加藤氏は1991年に550日ぶりに勝利投手に。ただ、患部は万全ではありませんでした。1992年に右肩手術を決断。今でも忘れぬリハビリ生活が待っていました。

 現役時代に4球団でプレー、元ホークス右腕でもある加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はダイエー時代のプロ7年目、1990年に右肩痛を発症して1年間を棒に振った。リハビリ生活を経て1991年は4月21日の日本ハム戦(東京ドーム)で550日ぶりに勝利投手となるなど1軍復帰を果たすが、まだまだ本来の状態ではなかったという。「ごまかし、ごまかしで投げていたけど、その次の年(1992年)はそれもできなくなった」と表情を曇らせた。

 右肩痛のため、1990年シーズンを1軍登板なしで終えた加藤氏は1992年、新任の権藤博投手コーチの下で少しずつ前に進んだ。投手陣だけ2月1日から10日まで米・ハワイ州カウアイ島で1次キャンプを行ったが、それにも参加して汗を流し、高知東部球場での本隊キャンプに合流後は打撃投手や紅白戦登板もできるようになった。そのままオープン戦でも数試合に投げて、シーズンに突入した。

 4回5失点に終わったものの、4月13日の西武戦(平和台)に先発し、2年ぶりの1軍登板。そして敵地・東京ドームでの4月21日の日本ハム戦で7回2失点と好投して550日ぶりの白星をつかんだ。「あの時、泣いたのは覚えています」。いろんな人に支えられ、励まされて、ここまで来た涙の復活劇だった。しかしながら肩が完全に回復したわけではなかった。この年は14登板で2勝7敗、防御率6.03。「全然、戦力になっていなかった」と話した。

「完璧に治っていたら2勝ってことはない。ごまかし、ごまかしの14試合だったと思う。薬をのんだり、痛み止めの注射を打ちながらね。最初の頃は1回投げたら肩の痛みが消えなかった。だから(登録を)抹消してもらっていました。間隔を空けると無理して投げられる程度にはなるのでね。かばいながら、ごまかしで投げて2勝したわけですよ。完璧に治るまで休めばいいのに、このまま終わるんじゃないかの焦りもあったと思いますね」

 夏場以降は1週間に1度くらいのペースで投げられるようになったが、これについても「ちょっと肩が癒えたかなっていう勘違いもあったんじゃないですかね。振り返れば中途半端な1991年でしたよね」と話す。オフには結婚した。翌1992年はもっとよくなるはず、との思いもあったことだろう。「ところが、どっこいですよねぇ。もうごまかしが効かないようにもなりました。まぁ、痛みはずーっとあったんですけどね」。

1992年2月のキャンプで右肩痛悪化…7月には手術を決断

 プロ9年目の1992年、加藤氏は2月のキャンプで右肩痛を悪化させてしまった。全く投げられない状態だったという。オープン戦が終わり、シーズンが開幕しても回復気配もなかったそうで「もうらちがあかん。何か行動を起こさなければいけないと思って、(前監督で当時は)編成担当の杉浦(忠)さんのところに行って『もうどうにもなりませんので手術をさせてください』とお願いしました。『わかった。病院は球団で探す』と言ってもらいました」。

 7月に加藤氏は福岡大学病院で右肩関節唇部分除去手術を受けた。「ヒダが神経に当たっていたのを切って、あと腱板をクリーニング。手術したら2年から3年
くらいかかるのはわかっていました。正直、急ぐことなく、その期間内に治せばいいという時間が欲しかったので手術したというのもありました。でも、回復とか、なかなか思ったようにはいかなかったんです」。

 子どもの頃の憧れの人でもあった田淵幸一監督は1992年限りで解任された。主力投手としての期待を裏切り、責任を感じた。「田淵さんの(1990年からの)3年間、僕は何の貢献もできなかったですからね。田淵さんが『俺がホークスで勝てなかったのは加藤の怪我で……』と話されているというのもけっこう聞きました……」と申し訳なさそうに振り返った。

 1993年からダイエーは根本陸夫監督体制になったが、加藤氏のリハビリ生活はさらに続いた。その年には福岡ドームが開場。「ドームもうらやましかったですよ。僕は(福岡市東区の2軍の)西戸崎のフィールドで毎日リハビリ、走ったりしていて……。ちょうど海の向こうにドームが見えてねぇ。あの景色はいまだに忘れられません。近くであって、遠いドームみたいな。ドームで活躍する選手がうらやましかった。こっちは投げたくても、投げられない状態だったのでね……」。

 その間、いろんな病院で治療したという。「球団から指定された病院だけじゃなく、自分で探して内緒で行ったりもしましたよ」。とにかく、何かしらの光明が欲しい一心だった。精神的にも厳しい状況だった。「(不祥事続きで公式戦登板が3試合に終わった鳥取・倉吉北での)高校3年間もしんどかったけど、この右肩痛の3、4年間が一番しんどかったし、つらかったですね」と加藤氏はしみじみと話した。