
加藤伸一氏はダイエー移転1年目はエースとして12勝
鷹フルの人気「鷹を彩った男たち」。加藤伸一氏の第8回は「ダイエー時代の明暗」。福岡移転1年目は2軍練習場も、寮もなし。「いろんなものがないというところからのスタート」でチーム最多の12勝を挙げるなど、牽引しました。一方で、移転2年目からは暗転することになり……。
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ホークスが南海からダイエーに変わった1989年シーズンに大活躍したのが加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)だ。高卒6年目の若き右腕は、夏場に3試合連続完投勝利をマークするなど、チーム勝ち頭の12勝を挙げ、新エースと呼ばれた。「この年は1年間、ホント怪我がなかったんでね」。オフに新監督に就任した元阪神、西武の田淵幸一氏からは早速、翌1990年の開幕投手にも指名された。まさにダイエーの顔的存在にもなったのだが……。
福岡ダイエーホークスとなり、大阪から福岡へ移転しての1年目は、まだまだ野球関連施設は整っていなかった。本拠地は平和台球場。「2軍練習場はない。平和台しかない。だから2軍も平和台、1軍も平和台。寮もまだできていなかったし、いろんなものがないというところからのスタートでしたね」。2月のキャンプは福間町福岡厚生年金スポーツセンターで始まり、その後、2次キャンプ地の米ハワイ州のカウアイ島に移動してヴィディナ球場で行われた。
注目を集めたのはファッションデザイナー・三宅一生氏による新ユニホーム。そして「ガッチャマンですよね。あれは強烈でしたね」と加藤氏も即座に反応した斬新なヘルメットだ。鷹の目が特徴的で、人気アニメの「『科学忍者隊ガッチャマン』みたい」と大いに話題になった。その新戦闘服の発表会で加藤氏はモデル役を同期で同い年の佐々木誠外野手とともに務めており、新生ホークスでも期待は大きかった。
好結果も出した。1989年4月10日の開幕3戦目、日本ハム戦(東京ドーム)に先発し、6回2/3、3失点でシーズン1勝目。開幕連敗スタートのダイエーに球団初勝利をもたらした。その後も先発投手として躍動。8月は12日のロッテ戦(平和台)に1失点完投勝利で7勝目を挙げ、17日の西武戦(平和台)では延長10回を3失点完投勝利で8勝目。さらに23日のオリックス戦(神戸)でも1失点完投勝利で9勝目をマークした。
キャンプで強制指令「なんであの時…」
3年目(1986年)に右肘痛を発症し、その後も決して万全ではない中、登板してきたが「6年目は怪我がなかったですからねぇ。1年間」と話す。久しぶりに思う存分、力を発揮できたシーズンでもあったようだ。9月6日のロッテ戦(川崎)では2失点完投で初の2桁10勝に到達。最終的には26登板、2完封を含む8完投でチーム勝ち頭の12勝8敗1セーブ、防御率3.67。福岡ダイエーは4位に終わったが、新生球団の新エースとして名を馳せた。
シーズン終了後、杉浦忠監督が退任して、フロント入り。新監督には阪神、西武でスター選手だった田淵氏が就任した。加藤氏にとっては子どもの頃に憧れた人。気合が入ったのは言うまでもない。その上、田淵監督からは早々と翌1990年シーズン開幕投手への指名を受けた。プロ7年目、ダイエー2年目に向けて、やる気がみなぎるばかりだった。しかし、ここから事態は暗転していく。沖縄・読谷村平和の森球場での2月のキャンプで早々に右肩を痛めたのだ。
加藤氏は無念そうにこう話す。「キャンプの初日からキャッチャーを座らせて投げろ、という強制指令が出て、それで投げて肩をやってしまったんです。まだ、調整を任される実績と年齢(当時24歳)じゃなかったのかもわからないけど……。普通、順番があるじゃないですか。遠投とか高いところから始めて、体ができてきたら下に向かって投げるというね。いきなり傾斜(のあるマウンド)で下に向けて投げると体にも負担がかかりますからね」。
今、振り返っても納得できない部分があるのだろう。「なんであの時、(首脳陣の)言うことを聞いてしまったのかなぁ」とつぶやいた。「あの時はオフの間も順調ではなかったんです。なんかしっくりこなくて(宮崎)都城での自主トレの時も思いのほか、うまくいかなかった。で、キャンプでのことが重なって、という感じ。若かったこともあるけど、そういう(自主トレでの)事情を(事前に)言うことができなかった。そこはすごく後悔しています」とも話した。
右肩痛は長引いた。キャンプ途中から2軍で治療、調整したが、状態は好転しなかった。開幕投手が白紙になったどころか、右肩関節周囲炎と診断され、リハビリが続いた。1年前にはエースと呼ばれる活躍をしたのが、遠い昔のようにも感じられたことだろう。「田淵さんに申し訳ないと思いました。ある程度、計算されていたでしょうから……」。結局1軍登板なしに終わったが、実はシーズン途中から登板不可能な事態にも陥っていた。
「僕も知らないうちに」任意引退扱い
7月に任意引退選手扱いになったからだ。「それはね、僕も知らないうちにそうなっていたんです。僕にも田淵さんにも相談なく、選手枠の関係で球団が(一時的に)外したらしいですけどね。どういうことなのかと思いましたよ。今はなくなったけど、当時プロ野球にも年金制度があって、支配下のカウントがなければ、それだけ(権利取得などが)遅れる。今だったらえらいことになりますよね」。右肩の状態もよくなかったとはいえ、モチベーションにも影響したようだ。
「契約更改の時に『なぜ、あんなことになったんですか』と聞きましたよ。そしたら『お前ぐらいがそんな小さなことを言うんじゃないよ』って言われました。大きいも小さいも関係ないと思いましたけどね……」。そんな憤慨する思わぬ出来事も含めて、悪い流れが押し寄せてきたのがダイエー2年目だった。エースとして活躍した移転元年との差は激しかった。その後、復活を果たすが、故障との闘いは終わらなかった。
