
地獄の3試合連続完投…スカウトの心を掴んだ“一冬の努力”
白球をひたむきに追いかけた日々――。プロ野球選手にとって、高校時代は原点でもあり、数々のドラマが詰まった特別な時間です。厳しい練習を乗り越えた記憶や、ライバルとの忘れられない対決……。今回は、選手たちに高校野球の思い出を直撃しました。一冬で17キロ増量してプロへの道をこじ開けた投手や、打者としてスカウトされかけた右腕など、それぞれの胸に刻まれた知られざるエピソードを語ってもらいました。

〇尾形崇斗投手(学法石川高)
――高校野球で一番印象的なシーンや、すぐに思い出すことは何ですか?
「3日連続完投ですね。練習試合なんですけど、人生で一番死ぬかと思った、一番きつかった投球です。3日連続で9イニング、合計27イニング投げました。2試合目までは勢いでいけたんですけど、3試合目の朝はもう全身が痺れていました。初回のマウンドでスタミナ切れみたいになってしまって、『やばいな』と。監督には『気合が足りない』と言われ、味方が攻撃しているイニングに30メートルのスプリントを30本やらされたんです。3試合目の初回ですよ。でも、それをやったら復活して、そこから9イニング投げ切りました」
「2年生の夏で、3年生が引退して新チームが始まったばかりの時期でした。自分がエースにならないといけないという気持ちもあって。本当にきつくて、その3日間で4キロぐらい痩せましたね。公式戦よりも印象に残っています」
――他にもありますか?
「あとは、3年生の春に聖光学院と公式戦で戦ったことです。当時の聖光学院は何年も連続で甲子園に出ているような強豪でした。その試合で、僕は延長11回、198球を投げて完投したんですが、サヨナラ負けでした。9回2アウト、ツースリーまで勝ってたんですよ。ランナーもなしで。最後の球もアウトローに決まったと思って、観客も総立ちだったんですけどね(笑)。判定はボールで、そこからフォアボールでランナーを出して、次のバッターにセンターオーバーを打たれて同点。最後は力尽きました。あと1球だったんですけど、200球近く投げたのも初めてでしたし、すごくいい思い出です。ただ、この試合で燃え尽きて肩を痛めてしまって、夏の大会2週間前まで投げられなくなってしまいました」
――高校時代の印象的なエピソードは?
「高3までプロのスカウトが一度も来ていなかったんです。プロに行く選手は高2ぐらいから注目されているので、もう無理かなと思っていました。でも、どうしても高卒でプロに行きたくて。高2の秋に体重を測ったら69キロしかなくて、これじゃいけないと。そこから一冬で何かを変えようと思って、1日6食の生活を始めました。12月から3月までの4か月で体重を87キロまで、17キロ増やしたんです。そしたら筋肉量も上がって、春先の横浜高校との練習試合で、9回12奪三振で完封できたんです。相手には増田珠選手や万波中正選手、及川雅貴選手がいました。球速も一気に10キロ上がって145キロが出て。彼らを見に来ていたスカウトの方々が、『あの横浜を完封したあいつは誰だ?』ってなって。そこから1週間でたくさんのスカウトが来てくださるようになって、プロの目に留まることができました。後で担当スカウトの方に聞いたんですけど、プロに入れた決め手は、横浜高校との試合内容というより、『一冬で17キロも自分を大きくできる才能と努力』を評価してくれたからだそうです。『ただ球が速くなっただけじゃ取らなかった。でかくする努力をしたから取ったんだ』と言われて、それが一番の思い出ですね」

〇木村光投手(奈良大付高)
――高校野球の思い出は?
「(3年の夏に)甲子園にいって1勝したことですかね」
――3年間で1番充実してたのはいつ?
「1番楽しかったのは3年生の時でしたけど、2年生の時が1番成長はしたかなと思います」
――2年生で一気に伸びた。
「そうですね、2年の秋くらいに一気に伸びて、そこから本格的にピッチャーになったんで。それまでは外野をやっていたんですけど」
――第2ピッチャー兼外野手?
「そうですね。野手をやりながら、第2ピッチャーみたいな感じで。秋の、自分たちの代になった時の2年秋の大会も、背番号8だったんですよ。外野をやっていたんですけど、秋が終わったくらいに、めっちゃ伸びて。コントロールも良くなってっていう感じで」
――何が変わった?
「もうコントロールが断然良くなって。ストライクもそんなに入るようなピッチャーじゃなくて、もう球威で押していくようなピッチャーだったんですけど。一気にコントロールが良くなりました。反復練習はたくさんしました。ブルペンで監督とかにも教えてもらいながら、投球のリズムっていうのを掴んでから、一気に変わりました。そこからエースになりました」
――一番きつかった練習は?
「もう本当にランニングがきつくて。自分は走れる方ではあるんですけど、ランニング自体めっちゃ嫌いなんですよ。走れるけど、走ることは嫌い。あまり好きではなくて。けどずっと走り続けて、ピッチングの粘り強さっていうか、そういうのはつけれたかなって。しんどかったですけど、いいところでもあったと思います」
――どんな思いで走っていた?
「『うわ、また始まった』『はよ終わってくれんかな』みたいな感じです。あとはもうとにかく、どうやってサボろうって思ってました(笑)だけど、サボったら自分に跳ね返ってくるなと思って、『自分に負けたらあかん』と思いながら走っていました」
――高校野球が終わった後は?
「休みっていう休みも元々なかったので。休みをどう過ごしていいかわからなかったっていうのが本音です。ずっと野球しかしてなかったんで。野球部の友達とユニバ行ったりとかしたんですけど、なんか暇な時が多かったですね」
――高校野球を引退したあとは寂しかった?
「寂しかったですね。物足りない感じというか。元気すぎて夜寝れないみたいな」

〇大江竜聖投手(二松学舎高)
――高校時代の一番の思い出は何ですか?
「高校の時から夏とかは神宮を使わせてもらったことです。プロに入ってからも、高校の時に使ってたなっていう感じで、初めて見た景色じゃないんで。それはめちゃくちゃ大きな経験だったなと思います」
――二松学舎ならではの「あるある」はありますか?
「学校自体が狭いんで文化祭とかは小さい感じではあります。僕は高校だったら、校庭でやる文化祭のイメージだったんですけど、二松学舎はこじんまりしていました」
――体育祭も規模は大きくない?
「体育祭は東京体育館を使います。めちゃくちゃテンション上がりますね。球技祭とかもありましたね。バレーボールとバスケットボールのクラス対抗戦です。全学年で」
――バレーとバスケはどちらを選んだ?
「僕は怪我しないようにバレーでした。バスケだとぶつかったりするので。あと、これは他ではない話だと思うんですけど、年明けに持久走大会があるんですけど、皇居の周りを走るんですよ。それが毎年です。3キロか5キロぐらい走ります」
――二松学舎の伝統?
「僕が入った時はずっとやっていましたね。コロナでどうなったかわからないですけど、在籍していた時は走ってましたね」

〇鍬原拓也広報(北陸高)
――高校野球時代の思い出はありますか?
「ピッチャーよりバッティングの方が得意でした。高校通算で22本のホームランを打ちました。(高校2年の)秋の大会でも7打数7安打とかもありましたね。でも、ベスト8で栗原(陵矢選手)のチーム(春江工高)に負けました。クリに聞いたらわかるんですけど、僕のことバッティング良かったっていうと思いますよ」
――4番でエースだった?
「3番ピッチャーでしたね」
――鍬原広報が2年生の時は栗原選手との対戦も?
「クリも出てましたしたよ。めちゃくちゃ有名でした。雑誌の表紙になるくらい」
――対戦した時は栗原選手が4番を打っていた?
「4番でした」
――対戦結果は?
「めちゃくちゃ打たれました(笑)。僕、シンカーが得意だったんですけど、唯一クリに打たれました」
――高校時代でシンカーを打たれた記憶は栗原選手しかない?
「そうです。クリにしか打たれていないです。エラーと四球と、クリに打たれたことで負けました」
――鍬原広報のチームに勝利したのちに、栗原選手はセンバツに出場した?
「そうです。そのまま北信越大会も準優勝して」
――鍬原広報が打撃の方が得意だったことも意外。
「実はピッチャーより、バッターの方が得意でしたね。高校の時は打者で指名するっていうのも多かったです」
(飯田航平 / Kohei Iida)