11月9日、球団から「左膝蓋靭帯に対する超音波腱剥離術」を受けたことが発表された。都内の病院で手術が行われ、復帰には4か月を要する見込みだ。全てが終わったからこそ、今シーズン悩まされ続けてきた左膝についても包み隠さず語ることができる。一体どんな状態で戦っていたのか。
「しんどい時期もありましたし、そんなに気にしないでやれる時期もありました。膝の痛みに波はありました」
実は、3月のオープン戦から左膝に違和感を覚えていた。「曲げられましたし、走れもしました。でも、マックスではやれなかったですね。全力でできなかった時期があったので、自分の中でも抑えながらという感じでした」。何も気にせずにプレーができないというのは、選手にとっても大きなストレスになる。スタメンを外れた6月ごろには、声すらかけづらい雰囲気だったのも事実だ。「結果を出せていなかったから、というのもありますけどね」。半年以上にわたって自らの体との“相談”は続いた。
みずほPayPayドームで午後6時開始のナイターゲームなら、全体練習に備えて選手たちは午後1時過ぎにはグラウンドへ姿を見せる。いつも一番乗りは山川穂高内野手、牧原大成内野手、中村晃外野手ら。周東がベンチから出てくるのは、多くの選手が現れてからだった。「治療して、そこから膝を動かせるようなトレーニングをしていたので、遅かったのかもしれないですね。準備に時間がかかっていました」と明かす。
具体的な症状は「炎症がすごかったです。そこが消えない限りは(全力疾走は厳しい)……というところだったんですけど、結局最後まで消えなかったです」という。時には、太い針の注射を患部に打ったこともあったが、「打ったからといって、良くなるわけでもなかったです。キツい時期はいろいろ考えながら、自分の体とも相談しながらでしたけど。そんな日ばかりというわけではなかったです。終盤はキツかったですけどね」。状態は日々、一進一退だった。
家族は、どのように支えてくれたのか。「いろんなことがありましたけど、気を遣ってもらったかなという感じです」。試合を終えて、球場を後にするまでの時間で感情の整理は終えるようにしていた。「(妻にも)膝のことは言っていましたけど、かと言って全てがわかるわけじゃない。僕の性格的にも、あまり言われたくないってわかっているから、基本的にはノータッチでした。普通にいてくれました」と、自然体で見守ってくれた。
「仕事と家のことは分けたかったので……。野球での感情はあまり家に持ち込みたくないです。だから、『痛い』とかもあまり言わなかったですね。家族と野球は関係ないですし、心配させたくないのもありましたから。あとはもう、子どもと遊んでいました」
今季は選手会長に就任して1年目のシーズンだった。123試合に出場して打率.269、2本塁打、26打点。41盗塁で2年連続3度目の盗塁王にも輝いた。個人の成績については「うーん……って感じですけど。1年間出られた、規定打席に立てた、というところはよかったと思います」と、手応えは感じつつも納得はしていない様子。ようやく全てが終わった今、2024年をどう振り返るのか。
「リーグ優勝できたので、チーム的には良かったと思います。最後(日本シリーズ)は負けましたけど、リーグ優勝(の価値)がなくなるわけじゃない。143試合をやった中で、パ・リーグで一番上だった。終わり方は良くなかったですけど、いい形のシーズンだったと思います」
左膝の痛みに耐えながら、徹底した準備を貫いた。何も言わず見守ってくれた家族には、感謝しかない。不安を消し去り、全力でグラウンドを走る周東佑京が、もう1度見たい。