夢にまで見た2桁をようやく掴み取った。ソフトバンクの川村友斗外野手が19日に支配下登録された。「今まで応援してくれた方々だったり、そういった人たちへの感謝の気持ちも生まれましたし、より一層頑張らなきゃという気持ちもありました」。ここまでの道のりを振り返り明かした分岐点は、ドラフト直前の大怪我。指揮官に直訴してでも出場して、プロ入りを勝ち取る執念があった。さらに2021年10月11日、ドラフト会議当日の“笑い話”も本人の口から明かされる。「一番アツい時に僕は山の奥で……」。
北海道出身で、北海高時代には甲子園で本塁打も放った。仙台大を経て、2021年のドラフト会議で育成2位指名を受けてホークスに入団した。2023年のオープン戦でも本塁打を放つなどアピールするが支配下は掴めず。ファームでは左肘の骨折などを経験するが「痛くないです……って言っています」と、早期復帰する執念を見せ続けてきた。似たような経験が、仙台大時代にもある。4年時の8月、右肩を脱臼したのだ。
打撃練習中の出来事だった。スライダーに設定されたマシン打撃で、肩が“外れて”しまった。「肩がバキバキって言いました」。秋のリーグ戦が開幕する前の大怪我に「どうしようって思いましたね。投げられないし……」。外野守備も持ち味の1つだが、守ることができない。それでもすぐに行動に移し「監督に“ゴネた”んです。最後のアピールがしたいし、これで怪我しても自分の責任なので、DHでもなんでも出させてくださいって」。結果的にリーグ戦では打率2割台に終わるものの、学生時代からグラウンドへの執念は誰よりも強かった。
プロへの距離感を思い知ったのは高校時代だった。同級生の阪口皓亮投手がドラフト3位でDeNAに入団する姿を見て「初めて身近な人がプロに行って、野球をやっているからには目指さないといけないなって思いました」という。仙台大では2年秋からリーグ戦に出始めて、打率.474で首位打者を獲得。「そこから『これは行けるかも』と思って、目指すようになりました」と、少しずつ気持ちは傾いていった。
迎えた2021年10月11日、ドラフト当日。育成指名でもいとわない覚悟で「『かかってくれ』とは思っていたんですけど……」と心境を振り返る。すると突然、川村自ら「え、話長くなってもいいですか?」と言ってきた。プロ入りを勝ち取った運命の夜、山の奥で過ごした日の話だ。
「僕らの大学、キャンプ実習があったんです。コロナとかもあったのでドラフトの日に行くしかなくて、みんな他の4年生(の野球部)は仙台の山の中にいたんですよ。僕だけ大学に残って、指名があって、会見をして、LINEとかもすごかったんですよ! でもすぐに僕も山に行って……。それを取らないと、卒業できないっていう必修科目だったので」
ドラフトの日はリーグ戦の試合もあり、川村も出場していた。それが終わると大学に戻り「他の同級生は着替えてすぐに山に行きました」。ドラフトと言えば、同級生たちから胴上げされるシーンなど代名詞でもあるが、川村は会見場にポツンと1人。会見が終わると、すぐにスーツからジャージに着替え、同級生が待つ同じ山の中に向かった。
歓喜の瞬間だったものの、キャンプ実習は待ってくれない。その日の宮城は大雨で、川村はお米を洗う係だったらしい。「その夜、同級生の野球部もいたので“プチおめでとう会”じゃないですけど、普通の缶ジュースで乾杯して『じゃあまた明日、山登りあるから』って言って解散しました」とささやかな祝福も大切な思い出だ。学生時代でまだお金もなかった時。安いもので揃えたキャンプ用品だったが、大雨にしてすぐ使い物にならなくなった。プロ野球選手になった瞬間から、卒業をかけた“試練”が次々と舞い込んできた。
「ドラフトが終わってすぐに山に行って、1泊目は山奥のテントに泊まりました。翌日は9時間かけて山登りして、また1泊して帰ってきたんですけど、その時にはLINEもすごく溜まっていた。なんか違うじゃないですか? 3日後に返すって……。(電波が回復すると)インスタのフォロワーとかもめちゃくちゃ増えていました」
ドラフト後から宮城県内の山に向かう途中ですら数100件の連絡が来たというが「『めっちゃ来てるじゃん!』って思って、返そうと思ったんですけど、山に行かないといけなかった(笑)。そしたら全然電波がなくて(笑)。人生で一番LINEが来る日だったのに、一番アツい時に僕は山の奥でキャンプしてました」と笑顔で振り返る。両親にも山に行く前に電話で報告したそうだが「『ありがとう! 今から山に行ってくる!』って」と、どこまでも慌ただしい1日だった。
今季がプロ3年目。オープン戦では打率.227に終わったものの、2年連続で本塁打を記録した。19日に勝ち取った2桁の背番号、きっとドラフトの時にも負けないくらいの連絡が来ただろう。人生の大切な節目に“笑い話”がついてくるところが、なんとも川村友斗らしかった。