鷹フルがお届けする主力4選手による月イチ連載、板東湧梧投手の「5月前編」です。今回のテーマは「お母さん」。5月14日は「母の日」でした。幼少期から母に影響を受けて育ってきた板東投手の母との“絆”に迫ります。次回のテーマは「親孝行」。5月27日(土)に掲載予定です。
板東は母の美佐子さん、祖父母、姉の5人と犬や猫、ウサギなどたくさんの“家族”に囲まれて育ってきた。母の人柄には「天然ですね、抜けています(笑)。僕が助けてあげたいなって思うような、そんなお母さんです」と照れ笑いで明かす。授かった名前は「湧梧」。由来には「小学校の時に、親に聞いてくるみたいな授業があって聞いた記憶はありますけどね。勇気が“湧”いてくるような、そんな子になるようなっていうのは聞いた記憶があります」と振り返る。
小学校2年生の時、従兄弟の影響で野球を始めた。「あと、じいちゃんもすごく野球が大好きで、家でずっと巨人戦を見ていました。従兄弟が野球をしていたのもあって、憧れて始めました」。当時は自身も巨人ファンだったというが「一番好きだったのはイチローさんですね」と振り返る。誰もが憧れたスーパースター。板東も同じ道を通って、野球を続けてきた。
中学を経て高校の進路を選ぶ時期。結果的に鳴門高校を選択したが、当時のことを「中学校の時に同じ鳴門地区の選手と仲が良かったんです。いい選手がいっぱいいましたし、僕らが中3の時に鳴門高校は甲子園にも出ていたので『集まらんか』って話になりました」と懐かしそうに話す。「特色選抜っていうのがあって、それで野球部が5人くらい選んでもらえたので、それで入りました」と、入学を決めた。
自宅から自転車で高校に通う日々が始まった。部活に勉強、親の助けが不可欠になる年代で「よく送り迎えをしてもらいました」と具体的な記憶を口にする。「自転車も車に乗せていました。僕は帰りにジムに寄っていたので、夜の10時とかに毎日ジムまで来てもらって、帰ってご飯を食べて……という生活でした」。ユニホームも母や祖母が洗ってくれていた。野球に集中させてくれたことには今でも感謝しかない。
「熱心に応援に来てくれていた記憶があって。それこそ、僕優先というか……。高いグローブだったり、道具で無理を言った記憶があるんですよね。必要もないのに欲しがったりとか、そういうのを買ってくれていたのはすごく感謝しています。仕事で疲れているのに、僕の野球のことで色々してくれた印象ですね。母さんはキツかった姿を見せなかったんですけど、僕も社会人になって改めてすごいなって思いました」
バットにグラブ、スパイク、ユニホームなど、野球の道具にかかる費用は決して安くはない。特にグラブには、板東自身も忘れられない思い出がある。高校時代には春夏を合わせて4度、甲子園に出場した。「甲子園に出たら割引みたいなのがあったんですよ」。母にグラブをねだった。
「その時も(グラブは高価なものだと)もちろんわかっていましたけど、僕は内野手も一応していた時があって。『もしもの時のために買ったら?』って他の人に言われて。僕もその気になって、母さんに『ほしい』って言っちゃったんですよね。母さんも他の父兄の方に『買ってあげたら?』って言われたりもして」
子どもなりの背伸びだったのかもしれない。新しいものにワクワクする気持ちに、母は否定することなく応えてくれた。「その時は『オッシャ!』って思いましたけど、今思えば、それを想像すると本当に申し訳なかった。しかも、一切使わなかったので、そのグローブは」。今も実家にあるという内野手用のグラブは、苦い思い出も、母のありがたみも詰まっている。
送り迎えやお弁当などの食事面、親の助けが欠かせない高校野球。必然的に他の家庭とも関わりを持つことになる。甲子園に出場すれば、なおさらだ。しかし、板東は、父親がいる他の家庭を見ても、劣等感のような感情を抱くことは一切なかった。それだけ母の存在が頼もしかったからだ。
「『お父さんがいたらな……』って瞬間は1度もなかった。野球を始めた時に母さんがキャッチボール相手をしてくれて、気合の入れ方も母さんから教わった。声を出しながら球場に向かったりもしていたので、気にしたことはなかったです」
少しずつ野球選手としても成長を遂げて、鳴門高のエースになった。しかし、実は高校で野球を辞めようとも思っていた。次回はJR東日本に進路を決めた経緯と、プロ入り後の母とのやりとりについて迫っていく。