
右肩手術後のリハビリ中…監督の紹介で気功治療を受けた加藤伸一氏
鷹フルの連載「鷹を彩った男たち」。加藤伸一氏の第10回は「流れが変わった嘘」。1991年の手術後も状態は上向かず……。監督からは気功治療を勧められました。しかしそれでも状態は良くならず、思い切ってとった行動とは――。
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それは嘘から始まった……。元ホークス右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ9年目の1992年7月に右肩を手術し、リハビリ生活を経て1994年に1軍復帰を果たした。5月18日の近鉄戦(日生)では998日ぶりに勝利投手となった。自らの“見切り発車”によって、実現させたカムバック劇でもあった。2月のキャンプ当初は整体、気功治療を行っていたが、治っていないのに治ったと虚偽報告してチームに合流し、流れが変わったという。
右肩手術から1年以上が経過しても加藤氏に光明はなかなか差し込まなかった。長期リハビリは覚悟していたとはいえ、描いていた回復具合とは違っていたそうで、いろんな治療も試したという。1993年から福岡ダイエー監督に就任した根本陸夫氏からは徳島県にある気功の治療院も紹介された。「ダイエーの選手は何人か行っていましたよ。(気功師が)指を当てると黄色い光が出て(怪我が)治るらしいということでね」。
現地に滞在しての治療。「午前中の部とか、昼の部とかがあって、気功だけじゃなくて、その近くの整骨院に行ってマッサージを受けたりする。キャッチボールもさせられます。で、治った人から帰っていくんですが、僕はいつも残されるわけです。だって治らないし、黄色い光線は見えないし、投げていても痛いものは痛いんですよ、みたいな……。翌年(1994年)も1月にそこへ行くように、根本さんに言われた。『治るまで帰ってこんでいいから』ってね」。
2月に高知市営球場でのダイエーのキャンプが始まったが、加藤氏は徳島から動けない状況だった。「根本さんからは『クビにはしないから、給料は下がるけど治るまで契約してやるから』って言われていました。でもやっぱり……」。キャンプが1クール進んだ頃には、みんなから取り残されていくことに、もはや我慢できなくなった。「治ったって嘘をついて、そこを出ました」。そして高知キャンプに合流した。
とにかく現状を変えたい。思い切った行動だったが、それが結果的にはいい流れをもたらす。最初はブルペンでも怖々と投げていたが、徐々に状態が上がっていった。「だましだましですけどね」と言うものの、オープン戦にも登板し、結果も出して、開幕ローテーション入りまで決めた。開幕4戦目の4月13日の西武戦(福岡ドーム)に先発。この時は4回2/3、4失点だったが、そこから中6日先発の4月20日近鉄戦(福岡ドーム)では6回無失点と好投した。
1994年5月18日の近鉄戦で998日ぶりに勝利投手も…被った大偉業
ただし、勝ち星にはなかなか恵まれなかった。勝ち投手の権利を持って降板しても、リリーフ陣が打たれるなど巡り合わせが悪かった。当時ダイエーの下柳剛投手が救援失敗で何度か加藤氏の勝ち星を消しており、謝りにも来たそうだ。「下柳は『加藤さんの時には自分がまた投げたい』と男気も見せてくれてね。うれしかったですよ」とかわいい後輩のことを思い出しながら話す。
「下柳も阪神で活躍できて、本当によかったですよね。珍プレーで(内野手がミスしてマウンドの)下柳がグラブを投げつけているのを見たら、昔、僕の勝ち星を消された時のことをちょっと思い出しましたけどね」と言って笑みもこぼした。1994年の加藤氏はシーズン5度目先発の5月18日の近鉄戦での6回3失点投球によって998日ぶりに白星をゲットしたが、その試合に2番手で投げて3回無失点でセーブを挙げたのが下柳。やはり印象深い後輩なのだろう。
「あの日、久しぶりの勝利ということで、テレビ局から(スポーツニュース)出演の話が来て、宿舎に帰ってから『すぐ行きます』なんて言った瞬間にキャンセルになった。福岡ドームで(の広島戦で巨人の)槙原(寛己)さんがパーフェクトをしたので、槙原さんをスタジオに呼ぶので、って。『そりゃあ、えらい違いだから、どうぞ、どうぞ』ってなりましたけどね』。巨人・槙原の完全試合と同じ日に挙げた復活星。加藤氏にはそれもまた記憶に残る出来事だった。
この年の成績は17登板、3勝5敗、防御率4.82。7月5日のロッテ戦(北九州)では1721日ぶりの完投勝利で2勝目を挙げた。7月14日のオリックス戦では本拠地・福岡ドームでの初勝利となる3勝目をマーク。この時は想像もしていなかったが、この白星がホークスでの“ラスト勝利”になった。
