
加藤伸一氏は1983年ドラフトで南海から“外れ1位”で指名された
鷹フルの連載「鷹を彩った男たち」に“伝説のイケメンエース”が登場します。1983年のドラフト会議で1位指名され、南海に入団した右腕の加藤伸一氏。鳥取・倉吉北高での公式戦登板はわずか3試合。それでもプロから注目された逸材はすぐに頭角を現し、故障とも闘いながら4球団でプレーして通算92勝をマークしました。第1回のテーマは「ホークスの熱意」についてです。
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1983年のドラフト会議で加藤氏(現・KMGホールディングス硬式野球部監督)は南海から1位指名を受けた。「5位か、6位と思っていたのでびっくりしました」。高校時代、チームは不祥事続きで公式戦登板は高校2年夏までの3試合だけ。実績もなく、無名の存在だったのだから無理はない。もっとも、南海に行くのはドラフト前から決めていたことでもあった。他球団ならプロ拒否の予定でもあったという。
想定外の出来事ではあった。1983年11月22日、プロ野球ドラフト会議が東京・飯田橋のホテルグランドパレスで行われた。南海、近鉄、日本ハムの3球団は創価高の左腕・小野和義投手を入札1位。抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得した。そして南海は外れ1位で加藤氏を指名した。事前に指名が予想されており、倉吉北高側も会見の用意はしていたが、1位とは本人も含めて誰も思っておらず、その時間帯は学校にいなかったという。
「たまたま倉吉市内の高校が集まるイベントが中央体育館ってところであって、僕はそこにいたんです。で、1位と聞いて、急きょ外に出て胴上げとなったんですけど、ウチの野球部の仲間もいたけど、他校の生徒も入っていましたよ。なんだなんだ、みたいな感じで……。それから学校に戻って記者会見して、今度は学校のグラウンドで胴上げ。1日に2回やりました。最初のところで撮っていないマスコミもあるだろうってことでね」
ドラフト前、南海以外の球団には大学進学を明言
実のところ加藤氏はドラフト前にプロ拒否の意向を各球団に伝えていた。「『大学に進学します』と言っていました」。これは南海スカウト側から指示されたもの。日本ハムを除く11球団から興味を示されており、大学進学を打ち出すことで南海以外の10球団に獲得を諦めてもらう“作戦”だった。ドラフト当日は南海が5位か6位で“強行指名”して加藤氏を口説き落とす。当初はそんなシナリオが描かれていたという。
「もともと僕はどこの球団でもよかったんです。高校の時に何の実績もないピッチャーですしね」。それが南海に気持ちが傾いたのは担当の杉浦正胤スカウトの誠意だった。「南海さんは何度も何度も来られた。杉浦(正胤)さんだけでなく、他のスカウトの方もね。ウチの親も『南海さんが一番熱心だから、南海さんに行きなさい』と言うようになった。契約金とかは決して高くないんですよ。何を僕らが感じたかといえば、誠意なんです」。
そもそも一番最初に自主的な“放課後練習”の加藤氏をチェックしにきたのも南海・杉浦スカウトだ。それをきっかけにいろんな球団が来るようになった経緯もあった。「杉浦さんの最後の殺し文句は『私には子どもがいないので、養子としてほしい。養子にしてでも、それぐらい面倒を見る』でした。口がうまいですよね」。加藤氏は笑みを浮かべながら振り返ったが、南海に行きたい気持ちも自然と高ぶり、言われるがままに大学進学、プロ拒否の姿勢を打ち出した。
高校3年の時には南海の試合も何回か見に行ったという。「もう頭の中は南海だけ。スカウトからファンブックをもらって『ウチの選手を覚えて』とも言われていましたね。『まぁ、しかし弱いですね』って僕は言ったりもしたんだったかなぁ。確か西武戦だったと思うけど、大阪球場のナイターで(南海投手の)藤田学さんが先発して、お客さんはガラガラだったけど、カクテル光線のなかでかっこいいなって思ったのも覚えています」。
だが“作戦”はすべてうまくいったわけではなかった。「ずっと大学に行きます、大学に行きますと言っていたんですけど、おかしいと思われていたんでしょうね。阪急がドラフト前々日も指名すると言ってきたんですよ」。当時は各球団のドラフト戦略も様々で、いろんなところで化かしあい、駆け引きが行われていた。加藤氏の大学進学希望も、すべての球団が鵜呑みにしたわけではなかったようで、実際、1位になった裏にも他球団の存在が大きく関係していた。
トイレ個室で得た”情報”で繰り上がった指名
「あとあと杉浦さんに聞いた話ですけど、ドラフト当日、トイレ(の個室)で耳にしたそうです。阪急と巨人のスカウトが『倉吉北の加藤はどうする?』『獲るの、獲らないの』『ウチは上位で行こうと思っているよ』なんて話をしていたってね。これは本当らしいです。それで(南海側は)『加藤は5着や6着ではとれないぞ』となったそうです」。どれだけ大学進学を打ち出していても“敵”もさるもの。「指名すれば獲れるのではないか」とにらんでいたのだろう。
入札1位の小野の交渉権を南海が獲得していれば、どうなっていたかはわからないが、南海は「加藤は2位でも難しいかも」と判断した。当時のドラフトはすべての順位が入札制。2位なら他球団との競合抽選の可能性が出てきたため、5位、6位どころか一気に外れ1位に“昇格”して確実に指名した形だ。それくらい南海は加藤氏を逃したくない逸材と評価していたのだ。
想定外の1位に「うれしいけど、びっくりが先に来ました」と加藤氏は話す。阪急などにバレていたかはともかく、指名後も当初は「大学に行きます」とプロ拒否の構えを見せて最後は口説き落とされるという1位指名以外は予定通りの展開で南海入りが決まった。ちなみにカムフラージュで受けた大学には面接で落ちていたという。「『なぜウチを受けに来たのか』みたいなことを聞かれて。子どもですし、うまく答えられなかったんです。そういう(不合格)情報も(他球団には)入っていたんですかねぇ」。
とはいえドラフト1位のプレッシャーはあまりなかったそうだ。「試合でほとんど投げていないのに(1位で)いいのかなっていうのはありましたけどね。しょせん、実績もないし、甲子園で活躍したわけでもないし、優勝しているわけでもないし、その辺は気楽でしたよね。まぁ、順位がどうのこうのっていう価値観もないくらいプロにいければいいというレベルだったわけですよ。田舎で、いろんな知識もなかったしね」。
その年のドラフトでは倉吉北高で加藤氏の控えだった石本龍臣投手も広島に5位指名された。「彼は(広島入りして1985年に現役を引退し)その後、競輪選手になったけど、ほとんど試合していない高校で2人もプロに入ったんですからね」。つらいことばかりだった高校時代を経て、つかんだプロの道。背番号は17に決まった。甘いマスクで女性ファンからの人気も集めた。ホークスの新星は高卒1年目から活躍することになる。
