2度の絶望を味わった育成左腕…「投げるのが怖い」 宮崎颯が伝える“感謝と復活劇”

宮崎颯【写真:冨田成美】
宮崎颯【写真:冨田成美】

ブルペンは「PKをしているようだった」

 充実感に満ちた表情が、現在の心境を物語っている。プロ3年目の育成左腕・宮崎颯投手は、中継ぎとして今季2軍で18試合に登板し、防御率1.21(※7月12日時点)の好成績を残している。7月末の支配下登録期限が迫る中、マウンドで見せる気迫には、支配下を掴むという決意以上のものがみなぎっている。

 これまでの道のりは決して平坦ではなかった。入団直後に左肘のトミー・ジョン手術を受け、長いリハビリ生活を経験。ようやくボールを投げられるようになった左腕に待っていたのは、痛みとは質の違う、さらなる試練だった。ごく普通のキャッチボールで、突如として腕が自分の思い通りに動かなくなったのだ。

 投手にとって、選手生命の危機を感じるほど深刻な事態だった。「野球が嫌いになりそうでした」。原因不明の症状に襲われた宮崎は、暗く長いトンネルをさまようことになった。“投げられない”苦しみから、どのように光を見出し、復活を遂げたのか。その壮絶な復活劇の裏側に迫る。

陥った人に投げる“恐怖”…「ボールを握るのが怖い」

「人に投げるのが怖いという状態で、もう頭の中がパニックになってしまう。自分が動かしたいように体が動いてくれない。どう動かしていいのかも分からなくなっていました」

 宮崎は当時をそう振り返る。自分の意思とは裏腹に、動かない体。人に向かって投げることができず、症状は悪化の一途をたどった。ついには5メートル先の集球ネットにすらボールが入らないほど深刻な状態に。「ボールを握るのが怖い」。球を掴もうとするだけで左腕が震え始めるほど、心身ともに野球への拒否反応を示していた。

 当然ながらブルペンでも思い通りに投げられなかった。室内ブルペンでは天井にボールを当てることもあれば、すぐ目の前の地面に叩きつけることも。「ブルペンの2つ隣のレーンに投げることもありました。真ん中にいったら奇跡という状態。サッカーのPKをしているような感じでしたよ」。今だからこそ苦笑いで明かす。

宮崎颯【写真:飯田航平】
宮崎颯【写真:飯田航平】

「笑っとけ」周囲の支えが思い出させた野球の“原点”

「克服のきっかけは気持ちの面からでした。太田(利亨リハビリチーフ)さんからも『自分は野球選手だと思わなくていい』とずっと言われ続けました。森山(良二リハビリコーチ)さんには、『リハビリだからってそんな顔すんじゃねえ』と言われて、ハッとしました。どんな状況でも笑っとけと思えました。それで本当に病気が治るわけじゃないけど、メンタルが治るかもしれないから」

 見かねた周囲も必死に手を差し伸べる中、大きな転機となったのは、入団以前から宮崎が世話になっているトレーナーの助言だった。「1回心から楽しんでみろよ」という言葉に、野球が嫌いになりかけていた自分が許せない、と気づかされた。

 友人の存在も大きかった。「一番仲の良い同級生とキャッチボールをした時に、『野球ってこんなに楽しいんだ』というのを思い出してから、一気に状態が戻ってきました」。忘れかけていた野球を始めた頃の楽しさ――。原点を取り戻した瞬間だった。

先輩右腕が説いた「お前の仕事」

 当初は、この辛い経験を“黒歴史”と捉え、語ることに抵抗があった。そんな宮崎に、新たな役割を示したのが又吉克樹投手だった。「悩んでいる人がいたら、それ(宮崎の言葉)がヒントになる可能性もある。『お前の中で終わらせるのではなくて、誰か1人にでもこの情報を広めていくことは、お前の仕事だぞ』と伝えました」。ベテラン右腕は経験を発信する意義を説いた。

 先輩の言葉を受け、宮崎の心境は変わった。「その時期があったことには感謝しています。メンタルも強くなれましたし、そうなったから終わりじゃないんだということを学びました」。苦しんだ日々が、左腕を強く、そして優しくした。

「プロ野球選手は夢を与えられる職業だと思います。自分もそうやって夢をもらった立場なので、見に来てくれた子どもたちに『宮崎を見たい』と思ってもらえるような選手を目指したい。この経験を克服したからこそ、そう強く思います」。手術、そして“投げられなかった”日々。どん底から這い上がった左腕は、マウンドで躍動する。その姿を通して、多くの人に勇気と希望を与えていく。

(飯田航平 / Kohei Iida)