1999年ダイエー初優勝…「涙が溢れてきてですね」
かつての仲間が集まれば、自然と昔話に花が咲いた。福岡に歴史を刻んだ、ダイエー初優勝の思い出だ。「王さんが笑ったんですよ」。城島健司CBOが、懐かしそうに振り返る。
別府大付高から1994年のドラフト1位でホークスに入団した。王貞治球団会長も、翌1995年からダイエーの監督に就任。1年目から自分を育ててもらい、“師弟”として絆を深め合ってきた。「長い王さんの歴史の中でも、物を投げられたのは僕だけですよ」。忘れられないのは、1999年。優勝を決めた9月25日だ。日本ハムを相手にリードを奪い、いよいよ9回を迎えた。待望の瞬間まで、あとアウト1つ。大好きな“王さん”が、微笑んでいた。
「初優勝の前、最後の試合の9回、1点差だったんですよ。それでふとベンチを見たら、王さんが笑ったんですよね。いつも眉間にシワを寄せている王さんが、ですよ。それを見てもう涙が溢れてきてですね」
常に勝利にこだわり、誰よりも徹底した姿勢を貫いてきた王会長。試合中の笑顔なんて見たことがない。1989年にホークスは九州に移転。悲願の初優勝を前にして見せた優しい表情に、涙腺は崩壊した。マウンドにいたのはロドニー・ペトラザ投手だったが「もうね、球なんて見えなかったですよ。最後の1球っていうのは印象に残っています」。冗談で振り返るが、涙で視界がにじんでいたのは事実だろう。
城島健司に「時間がなかった」という理由は?
毎年のように、頂点を目指して戦ってきたが、1999年だけは特別な思いがあった。号泣の理由は、喜びだけではない。「僕の場合は、時間がなかったんですよ」と当時の心境を語った。
「会長の契約が最終年だったんですよ。3年目から俺を使ってくれた時に、王さんが『優勝するためにお前がマスクをかぶるんだ』ってずっと言われてきました。王さんの3年目、4年目(1997年、1998年)と勝てなくて、あの年で契約が最後というのは知っていました。99年はそういう思いと、自分がかぶっている間に優勝が間に合ったっていう。嬉しい涙というよりも、安堵の感情でした」
優勝マジックが減るにつれ…異様だった福岡の町
南海時代の1978年から、20年連続Bクラス。“世界の王”が監督に就任して以降もチームは苦しみ、1996年には生卵事件も勃発した。城島氏は若くしてレギュラーを掴み取り、チームの主力として全てを背負う王会長の背中をずっと見ていた。「恩返しになったんじゃないですかね。あの優勝があったから、そこから20年、25年が経っても(強いチームが)続いているから」。マスク越しに見た笑顔は、今も色濃く脳裏に焼き付いている。
チームの快進撃で、福岡、そして九州全体の空気が変わるのを感じていた。優勝を争うこと自体が、初めてと言っていい経験だった。「ちょっとでも連敗すると、メディアの方もファンの方もすごく応援してくれたし、一喜一憂してくれた。マジックが減っていくにつれて、異様な雰囲気がありましたね」。2位に4ゲーム差をつけ、129試合目でゴールテープを切った。「もちろん今の優勝も嬉しいですけど、あの時は20年Bクラスだったわけですからね」。以降、数々の栄光を手にしたが、1999年はとりわけ特別なシーズンだ。
23日に行われたソフトバンクOB戦「SoftBank HAWKS 20th ANNIVERSARY SPECIAL MATCH Supported by 昭和建設」では、井口資仁氏や和田毅氏、ダイエー時代を知る元同僚たちが久々に集結した。「プレーボール」の号令をかけたのが、王会長。かつての愛弟子を見つめる表情は、誰よりも優しい笑顔だった。
(竹村岳 / Gaku Takemura)