2002年ドラフト、自由獲得枠で入団してきた和田と出会った。1年目の2003年から14勝を挙げた左腕に「右バッターの外角へのコントロール。和田を語る上でそこは欠かせません」と、ミットを通じて関係性を深めてきた。マウンドで「お前テキトーに投げてんだろ」と叱ったこともある。当時、指揮を執っていた王会長のもと、常勝軍団の礎を一緒に築き上げた。昨年11月5日に現役引退を表明。「僕は22年間、真剣勝負の中で生きてきました」と語る和田の姿を、城島氏も見守っていた。
自身は2006年オフに海外FA権を行使し、メジャーリーグに挑戦。2010年からは阪神で3年間プレーした。現役を引退したのは、2012年。「やめてから随分と月日が経っているから、和田と自分のことを照らし合わせるのは、ちょっとぼやけているけどね」と笑って振り返る。タイガースとは4年契約を結んでいた。年俸は4億円とも言われ、2013年もプレーする権利を有していたにも関わらず、潔くユニホームを脱いだのだ。13年越しに明かす理由とは――。
「僕の場合は契約の年数が残っていて、来年(2013年)プレーできない怪我だったので。阪神さんに、僕がプレイングタイムを求めてやってきて、試合に出られないっていうのは。4年契約をしてくれましたけど、それは『4年はプレーしてくれるだろう』っていう期待と、信頼じゃないですか。それは応えられないので、もうやめるという決断をしただけです」
2009年、マリナーズでは71試合出場にとどまり、出場機会を求めて日本球界復帰を決断した。虎1年目は144試合に出場して打率.303、28本塁打という期待以上の活躍を見せたが、その後は右肘や左膝の故障に苦しんだ。2012年は坐骨神経痛が発症し、5月には腰の手術も決断した。契約が残っているとはいえ、2013年もプレーできないことが自分でも予想できてしまうほど、体はボロボロだった。
和田も、2024年は股関節や首の痛みに思い悩んだ。「僕と毅ではまた少し違いますけどね」と笑顔で話すが、自身の決断に後悔がないことは共通しているだろう。「当然、やめる時は理由が色々あるんですけど。五体満足で野球をやっている選手なんていないですよ」。語り始めたのは、“引退”という選択肢がちらつくベテランならではの思考だ。
「年を重ねると怪我も増えるし、どこか治ったらまたどこかが悪くなる。治りも遅いしね。そんなのを繰り返していると、思考が全て引退に結びつくワケですよ。20代で足を骨折しようと、引退なんてよぎらないですよね。治したら出られるんだから。でも年を取ったら、いい打球を飛ばせなかったり、納得できるパフォーマンスができなくなる。でも、それがたまにできたりもして、頭の中にある『引退』が消えたり、大きくなるものなんです」
若手時代なら怪我をしても、胸の中にある野望は燃えているだろう。一方で、年を重ねるほど自分の立場も理解するようになる。故障、出場機会の減少、若手の台頭……。身に起こる全てが、引退という決断に自然と結びつくようになる。第一線で戦い続けた選手だけが得られる思考だった。
和田氏が引退を公表する前、城島氏は「やめるのはいつでもできるからな」と伝えた。怪我により、翌年のプレーがイメージできないほどボロボロになった2012年。自身の経験があるからこそ、後輩左腕には「1日でも、1試合でもやってほしい気持ちがあった。長くやるほうが絶対にいいと思うし、現役は今しかできないので、それを伝えたかったんです」。グラウンドに立ちたくても、いつかは立てなくなる。説得力に満ちた言葉で、和田氏の背中を押した。
少し時間が経ち、電話で引退を報告された。「やめます。実は、ジョーさんに言われた時には決めていたんです」。潔い決断には、心からのリスペクトしかない。「『いつでもやめられるからな』と、もし言っていなかったら……。和田から連絡があった時、自分の口から伝えられてよかったなと思います。その話は、毅ともしましたね」。納得がいくまで戦ったから、男たちの決断は美しかった。