小3から7年続いた「地獄」の日々 携帯は使用NG…厳格な父との握手に潤んだ瞳【新人連載⑤石見颯真】

ソフトバンク・石見颯真【写真:冨田成美】
ソフトバンク・石見颯真【写真:冨田成美】

昨年のドラフトを見てコンバートを決意「外野じゃ無理やなって」

 2024年ドラフトでは支配下選手6人がホークスに加わりました。鷹フルでは将来を担うルーキーズを全6回にわたって紹介します。第5回は愛工大名電高からドラフト5位で入団した石見颯真(いしみ・そうま)内野手です。“厳しすぎる父”との日々を乗り越え、掴んだプロ入り。「おめでとう」——。交わした握手に抱いた万感の思いとは。

「石見少年」にとって、小学校から帰宅した午後3時からが“一日の始まり”だった。すぐさま家を飛び出してランニングで体を温めると、父の純一さんが帰ってくる午後5時半に近くの公園へ移動。親子で2時間みっちりとバッティングや守備練習をこなすと、自宅に戻ってようやく夕食だ。食事を終えても、まだ休息は訪れない。「今から走ってこい!」。ランニングや素振りをすること1時間。午後10時前に全てのメニューを終えると、ヘトヘトになってベットに倒れ込むのが日常だった。

 この生活は小学校3年から中学を卒業するまで、実に7年間も続いた。携帯電話も自宅のWi-Fiでしか使えない“制限付き”で、家の外では使用不可能だった。学校以外で友人と遊んだ記憶はほとんどない。夜間練習を可能にした公園の照明すら疎ましく感じるほどだった。「ある意味“地獄”みたいな生活というか……。正直しんどかったですし、父親のことは“うっとおしいな”と思っていましたね」。純一さんも野球経験者だが、金銭面の問題でやむなく続けることを諦めた。「満足するまでやってほしい」――。父としての思いを息子に託していた。

 石見は中学2年のころに「野球をやめたい」と母親に伝えたことがある。「『この家に生まれた限りは多分無理だよ』みたいな反応で。やめなかったというより、やめられなかったが正しいかもしれないですね」。今は笑い話だが、「プロになれなかったら割に合わない」というのが本音だった。

 中学まで過ごした滋賀を後にし、愛知・愛工大名電高に進学した。「強いところで勝負したいという思いと、親元を離れたい気持ち。ともにありましたね」。純一さんは「お前の好きなようにしたらいい」と息子の決断をただ見守った。覚悟を胸に飛び込んだ強豪校では、入学直後に外野手としてレギュラーを獲得。1年夏にさっそく甲子園に出場するなど、3年間で計3度も聖地のグラウンドに立った。

ソフトバンク・石見颯真【写真:冨田成美】
ソフトバンク・石見颯真【写真:冨田成美】

 プロ入りへの強い思いからコンバートも直訴した。「去年のドラフトを見ていたら、高卒外野手の指名は(支配下で)1人だけだったんです。『外野のままじゃ無理やな』と思って。監督に『ショートやらせてください』とお願いしました」。冷静な分析力に大胆な行動力——。人生のすべてを野球にかけてきたからこそできた決断だった。

 倉野光生監督からは「一旦いいけど、無理やったらすぐに戻すからな」とくぎを刺された。「その言葉があったから危機感を持って頑張れましたし、燃えましたね」。中学時代以来のショートということもあり、基礎練習を徹底的に積み重ねた。その結果、監督から“戦力外”を言い渡されることもなく、世代屈指の遊撃手へと成長した。

 迎えた2024年ドラフト当日。「『支配下か育成か、どっちでもおかしくないよ』と言われていたので。本当にドキドキしっぱなしでした」。ホークスに5位指名された瞬間は、「一気に汗が出ました」と体の中から熱くなった。今までの日々がよみがえり、満面の笑みが浮かんだ。

「おめでとう」。そう言って手を伸ばしてくれたのが純一さんだった。人生で初めてという親子での固い握手。「父の手は大きく感じました」。これまで褒められた記憶すらなかった父からの言葉に思わず石見の目は潤んだ。「おめでとうなんて、そんな言葉言えるんやって。ウルっと来ましたね。でも、初めて父親に感謝することができました」。

 昭和を代表する野球漫画「巨人の星」のような環境で野球に打ち込んできた。逃げ出したくなることは何度もあった。それでも歯を食いしばり、懸命に白球を追ったからこそ結実したプロ入りだった。「どんな世界か本当にわからないですけど、まずは野球だけでいいかなって感じです。ここからが勝負なので。遊んじゃって駄目になったら水の泡じゃないですか」。たくましく成長した18歳。再び父に褒められるよう、がむしゃらに戦うだけだ。

(長濱幸治 / Kouji Nagahama)