大学野球か、プロか…16歳で迫られた“人生最大の決断”
2024年ドラフトで支配下選手6人がホークスに加わりました。鷹フルでは将来を担うルーキーズを全6回にわたって紹介します。第1回は神戸弘陵高からドラフト1位で入団した村上泰斗投手です。中学まで投手経験がほぼゼロだった右腕。高校2年の夏に行われた「家族会議」で、大学進学を勧める両親に向けて示した“覚悟”とは……。
昨夏、村上は16歳で人生における大きな選択を迫られていた。東京をはじめ、野球の“名門大学”から届いた推薦に対する返答のリミットが近づいていた。仮に断れば、推薦の枠は別の有力選手に回される。そもそも、神戸弘陵高に入ったのはプロ入りのためではなかった。
中学生までのメーンポジションは捕手。マウンドに上がったのは指で数えるほどしかなかった。高校に進学後、ようやく希望していた投手としてプレーすることができるようになったが、推薦で“一番いい大学”を選ぶために活躍することが当初の目標だった。
高校2年間での急成長で、入学前に描いていた大学の推薦をもらうことができる立場になった。両親も「将来の安定も考えたら大学がいいんじゃないか」と村上に助言した。それでも村上は首を縦に振ることなく、キッパリと口にした。「大学はいいわ。プロで勝負したい」——。
「プロに挑戦したいって言っても、本当にできるんか?」。父の高広さんが意思を再確認しても、目の色が変わることはなかった。「本当に『やりたい』と言うのであれば、子どもの希望を親が潰してはいけないと。そこで(プロに)行けなかったら、一生後悔するだろううし、自分が決めた道で失敗したら、そこは納得すると思うんですよ」。息子の決断をただ見守ることを選んだ。
2007年2月20日、村上は5きょうだいの末っ子として生まれた。3人の兄と姉、そして両親に囲まれ、のびのびと成長。「お兄ちゃんがずっと野球をやっていたので。自分も……って感じです」。気が付けばグラブとバットを握っていた。
小さいころからとにかく“泣き虫”だった。試合に出られなければ泣き、出たとしてもチームが負ければ泣き、打てなければ泣き……。試合後、自宅に帰る際の車内で「テンション上げるのが大変でしたね」と高広さんは苦笑いする。時には悔しさがあふれ、チームメートのエラーに対して「自分が一生懸命やってんのに、みんなが頑張ってくれない。なんでエラーすんねん」とこぼしたこともあった。「それはあかんぞ、とコンコンと説きましたね」。父から見ても、息子の負けず嫌いは相当なものだった。
日課は自宅ガレージに設置したネットを使ったトスバッティングだった。学校終わりの夕方から兄3人が年齢順に打っていき、村上はいつもラストだった。照明のもとでバットを振り続け、午後8時ごろになると母親が「まだ練習しとんのか。はよご飯を食べなさい」と言ってくるのが終了の“合図”だった。それでも「まだやる」と言って村上が拗ねることは日常茶飯事だった。
中学までプレーした捕手として誘いを受けた神戸弘陵高。「泰斗とは『大学で野球ができればいいね』と話していました。プロなんて考えたこともなかったです」と高広さんは振り返る。それでも、村上の才能はすぐさま光り輝いた。入学直後、「1回投げてみるか」と言われて思い切り右腕を振ると、130キロ後半をマーク。すぐさま投手としての力量を見出され、1年から主力組に入ったが、その後は順風満帆とはいかなかった。
初めてエースナンバーをもらった2年秋の大会で打ちこまれ、「自分のせいで流れを持ってこれずに負けて。不甲斐ないピッチングをしてしまった」と涙を流した。3年夏、最後の兵庫大会も3回戦で敗退。高校3年間で甲子園出場は果たせなかった。両親が観戦に訪れた試合で打ちこまれた日には、母親に対して「せっかく遠いところから見に来てくれたのに、いい試合を見せることができなかった。迷惑いっぱいかけてごめん」とLINEを打ったこともある。「甲子園にも行っていないですし、日本代表にも選ばなかったので。高校では全くいい思い出はないですね。悔しい気持ちが強いです」。右腕は淡々と振り返る。
「球団からドラフト1位と評価をいただいて嬉しい気持ちはありますけど、プロの世界に入ったら順位は関係ないと思うので。とにかく挑戦させていただける機会を与えてもらえたので、立ち向かっていきたいです」。これまでの野球人生で味わってきた悔しさを力に変え、昨夏の決断が間違いではなかったことを証明してみせる。
(長濱幸治 / Koji Nagahama、飯田航平 / Kohei Iida)