ソフトバンクは5日、和田毅投手が今季限りで現役引退することを発表した。2002年ドラフトの自由獲得枠でダイエー(当時)に入団。1年目から14勝を挙げて新人王に輝くと、2010年にはキャリアハイの17勝をマークし、最多勝とパ・リーグMVPを獲得した。翌2011年オフには海外FA権を行使して、メジャーリーグに挑戦。2016年から再びホークスに復帰し、日米通算165勝を記録した。今年2月に43歳になった大ベテランが、ついにユニホームを脱ぐ決意をした。
DeNAとの日本シリーズは2勝4敗で終わった。激闘から一夜明けた4日の午前中、選手たちは空路で福岡に帰ってきた。その裏でにわかに信じがたい噂が聞こえてきた。チームから離れて激闘を見ていた大ベテランが、密かに野球人生にピリオドを打つ決断を下していた。
現役引退というプロ野球選手にとって重大な節目の時。本人への確認なくして報じられるはずもない。“筋”を通すために左腕のもとを訪れると、はじめは驚いた様子だったが、すぐに意図を理解し、足を止めてくれた。
「書かせてくれませんか?」。記者が深く頭を下げると、迷うことなく首を横に振った。「絶対に書かないでください」。まだ知人や関係者への報告が終わっていなかった。和田自身の口から直接、報告と感謝を伝えたい人がたくさんいるから「待ってほしい」と懇願された。引退が発表されるまでの時間をかけて、丁寧に報告したかった。自分なりに準備し、絶対に守りたい“順序”があったのだ。
日本シリーズが終わり「現役続行へ」という報道が次々と出たことは、当然知っていた。チームメートに引退を伝えたのも、4日夜だったという。「頑張って隠していたんですから」と柔らかな表情で語りつつ、同時に「書かないでほしい」という確固たる思いが伝わってきた。さらに「書くのは発表の後でお願いします。だから、今しているこの話も裏話にしちゃいましょうよ」とニッコリと笑った。自身の“仁義”を絶対に貫く中で、記者にも可能な範囲で歩み寄ってくれた。
ユニホームを脱ぐ決意を固めた具体的な時期は「会見で話しますよ」と伏せた一方で、小久保裕紀監督、倉野信次1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)、鈴木淳士1軍チーフトレーナーの3人にだけは伝えていた、と明かした。今季から1軍首脳陣となった指揮官と倉野コーチは、昨秋の段階から今季の開幕ローテーション入りを明言し、誰よりもベテランの力を信じ続けた。度重なる故障に悩む中で、鈴木トレーナーには体のケアをしてもらっていた。
今季は8試合に登板して2勝2敗、防御率3.76に終わった。チームは懸命に戦い抜き、9月23日のオリックス戦(京セラドーム)でリーグ優勝を決めた。自身はポストシーズンでの登板を目指して調整する中、10月13日には練習中に左足の付け根を痛めた。小久保監督は「今年は厳しいかも」と言及。復帰は最短でも2025年以降になることを意味していた。引退試合を“フォーマル”な場で設けなかったのも、左腕が「書かないで」と願う理由の1つでもあった。
「僕は22年間、真剣勝負の中で生きてきました。いろんなもの(成績)を残してきた中でも、それを誇りにしていたかったからです。今年、僕は何もチームに貢献していない。そんな自分のために引退試合をさせてもらうことや、日本一を目指す中で“和田さんのために”となるのも、僕は違うと思いました」
ファンに伝えるのは、全てが終わった後でいい――。自分の立場をわきまえながら、真剣勝負にこだわった和田の信念だった。引退していくための花道を否定したいわけではない。「そういう舞台をこれまでも見てきた」としながらも「僕は好きじゃない」と言い切った。ファンにも必死に戦うホークスを純粋な気持ちで応援してほしかった。
球団から引退が発表されたのは5日午前10時だった。左腕と会話を重ねる中で、思わず声が震えた。「お世話になりました」。和田は笑顔で肩を叩いてきた。「選手ではなくなっちゃうけどさ、なんでそんなに悲しそうなのさ!」。一切の妥協を許さず、それでいて少しお茶目で、誰よりも野球を愛してきた。現役を引退する最後まで、和田毅は本当にカッコよかった。
(長濱幸治 / Kouji Nagahama、飯田航平 / Kohei Iida、竹村岳 / Gaku Takemura)