【独占】緊急渡米の舞台裏、オスナの身に起こった全て 激痛で寝られない「最悪」の2週間

ソフトバンクのロベルト・オスナ【写真:竹村岳】
ソフトバンクのロベルト・オスナ【写真:竹村岳】

小久保監督&倉野コーチとのやり取りも独占取材…首脳陣から伝えられたことは

 ソフトバンクは2日、ロベルト・オスナ投手が腰部の検査および治療のため、渡米したことを発表した。「再来日は未定」だという。オスナは渡米を前に、鷹フルの単独インタビューに応じていた。明かしていたのは、渡米を決断するまでの迷い。痛みが限界を超えて、眠ることすらできない「最悪の2週間」があった。2024年、オスナの体に起こっていた“全て”に、迫った。

 ホークスに入団して2年目となった今季は、開幕から苦悩が続いていた。状態を上げることに苦労し、6月は防御率6.75の苦戦。30試合に登板して0勝2敗20セーブ、防御率3.99と、昨年のような圧倒的な姿を見せられずにいた。「ファンの方々に伝えてもらいたいのは、僕はリハビリをしにアメリカに帰ります。怪我があって、それを治すために帰ります。まずはそれを伝えたいです」。グラウンドの上での結果に苦しんでいたことはもちろん、オスナが最後まで悩み、“正解”を探していたことがあった。

 それは、どうやってファンの人たちに日本を離れるかを知らせるかということ。渡米の前に報道陣に自らが対応することも、選択肢にはあった。できることなら、身に起こった全てとコンディションについて、自分の口から伝えたい。昨シーズンにも「自分は真実を話すことしかできない」と語っていたが「ファンの方々が本当のことを知るのは、難しいことかもしれない。そうなると、ファンの人たちも想像してしまうじゃないですか」と、どこまでも応援してくれる人の気持ちを一番に考えていた。

 恐れたのは、沈黙が続き新しい情報が届かないことで、ファンの中でのイメージがどんどんと膨らんでしまうこと。「小さかったことが、どんどん大きくなってしまうこともあると思いますし」。ありのまま、今の自分を伝えることで、オスナなりにファンの声とは全力で向き合おうとしていた。

 ファンの存在があって、プロの世界は成り立っていることも当然、心からわかっている。甲斐拓也捕手のように、SNSを見ないことで自分のパフォーマンスに集中する選手もいるが、オスナは「それ(ファンの声)は自分にとっては非常に大きなことなんです。気にするな、という方が自分にはできない。無理なことです」と言う。誹謗や中傷で、自分だけじゃなくて家族や周囲の人間まで傷つくような事態にだけはなってほしくなかった。ファンの存在や声と向き合い、結果で応えようとしていたのはオスナの誠実さ、繊細さであったのは間違いない。

ソフトバンクのロベルト・オスナ【写真:竹村岳】
ソフトバンクのロベルト・オスナ【写真:竹村岳】

 下半身のコンディション不良。最初に違和感を覚えたのは、2月の春季キャンプ中だった。首脳陣との話し合いは何度も、慎重に重ね倉野信次1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)も「クローザーという自分のポジションに対する責任感で投げてくれていた」と語る。責任感が突き動かしていたオスナ本人と、なんとかしたい首脳陣の間で、最善策を探す努力は常に行われていた。

 試行錯誤しながらマウンドに立ち続けたが、明確に「悪化」を感じたのは6月下旬。25日からの大阪、北海道の遠征だった。痛み止めも飲みながら登板したが「全く効かなかったんです」。30日の日本ハム戦(エスコンフィールド)では3ランを浴びて1回3失点を喫した。クローザーとしての使命、結果に繋がらないこと、首脳陣やファンの期待に応えたい気持ち……。一番ジレンマを抱いていたのは、オスナ本人だった。

 そして、7月2日の西武戦(東京ドーム)。1回無失点で20セーブ目を挙げ小久保監督も「前回(6月30日の日本ハム戦)嫌な展開だった中、すぐ次の登板だったので、それが一番良かったところでしょうね」と話していたが、痛みは限界を超えた。一夜が明けた3日、ベッドからも起き上がれない。すぐに電話で人を呼び、飛行機に飛び乗る。機内でも、痛みはなかなかおさまらなかった。福岡に到着すると、真っ先に病院に向かった。

ソフトバンクのロベルト・オスナ(左)と甲斐拓也【写真:荒川祐史】
ソフトバンクのロベルト・オスナ(左)と甲斐拓也【写真:荒川祐史】

 登録抹消となって以降は「最悪の2週間だった」と語る。眠りも浅くなる。ベッドでは寝られないからソファで横になってみても、1時間ごとに目が覚めた。リハビリのためにファーム施設「HAWKS ベースボールパーク筑後」に通おうとしても、車で1時間以上の道のり。座って揺られているだけでも、患部には痛みが出た。渡米という選択も、オスナが「そうするしかなかった」と言うほどの状態だった。

 苦しむ中でも、首脳陣への感謝を語り続けていた。小久保監督にとって、昨年10月の就任会見の時点ではまだ、オスナの去就は流動的だった。「オスナがおらんかったら話にならない」とキッパリ言うほど信頼を寄せていた存在。渡米が決断してから、顔を合わせる機会があり「通訳を交えて、電話でも話をしましたよ」と明かす。全てを知る小久保監督は「必ず最後、戻ってきます」と、思い悩む右腕に言われた。指揮官からかけた言葉も、愛情と信頼に満ちていた。

「治して戻ってくることを信じて、待っているから」

 別のタイミングではあるが、登録抹消以降には倉野コーチも、会いに来てくれた。「心配でしたから、通訳を通して日々コンタクトは取っていました」と言う。オスナの決断にも「こればかりは仕方ない。気持ちが切れて、そうなるわけではない。実際に無理だから、プレーができないからなんです」と言及した。無念なのは、首脳陣にとっても同じだった。

 渡米する前に「1日でも早く戻ってくることを約束します」と誓い、飛行機に乗った。守護神としての使命と責任感を背負って、限界まで戦った。オスナの心の中には、常にファンの存在があった。

(竹村岳 / Gaku Takemura)