小久保裕紀監督の単独インタビュー…柳田不在の中で光った柳町の存在感
ソフトバンクの小久保裕紀監督が、鷹フルの単独インタビューに応じた。テーマは今、若鷹たちが直面している「怖さ」について。柳田悠岐外野手の離脱以降、空いた椅子を奪い合う姿をどのように見守っているのか。「今しかチャンスないでしょう」。また、柳田の復帰についても、指揮官自ら考えの一部を示した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今年のホークスは、2軍から昇格させた選手をすぐに起用する印象が強い。小久保監督は「そんなに意識はしていないですけどね」と言いつつ「必要なところではそうやってしますけど、去年の藤本さんも呼ばれたらすぐに使ってくれていたので、僕もめちゃくちゃやりやすかった。そういう影響は多少はありますけど、だからと言って決めているわけではないです」。2軍監督だった2023年、当時の藤本博史監督が若手を起用してくれたことが今に生きているという。具体的なイメージが湧くということが、選手のためにもなるからだ。
「要は声がかかった時点で上の試合に出られると本人が思っている。今年はそこまでははっきりしていないですけど、必要に応じてやっている感じですね」
5月31日の広島戦(みずほPayPayドーム)で、柳田が右ハムストリングを痛めて戦線離脱した。6月1日に佐賀市内の病院でMRI検査を受けると、診断結果は「右半腱様筋損傷」。球団からも「全治はおよそ4か月」と発表され、大黒柱を欠いて戦うことになった。柳田がいなくなって、1か月と少しが経った。改めて、いなくなって感じる柳田悠岐という存在について問うと、指揮官が名前を挙げたのは柳町だった。
「その(柳田が離脱した)間に柳町が交流戦で頑張ったりとか。だから柳町は1軍の選手の力があるのに、(なぜ)1軍じゃないんだと思っていたと思います。(ファームに)送り出す時には『4割打ってこい』と言って送り出しましたけど、それは僕の考え方というか、チームをマネジメントするにあたって、控えの選手で次レギュラー候補の選手は、ベンチを温めておくべきではないというのが僕の考えだったので、だから2軍でずっと打っていろ、と」
柳町が今季初昇格を果たしたのは5月28日。ウエスタン・リーグでも打率.333と結果を残していた。「(柳町には)自分の形がある。呼んだらやっぱり1軍でもそれなりに対応ができる」と打撃面を評価する。柳田が離脱したことで「そういうものが欲しかった」と、安定したバッティングで1軍を救ってもらうために、昇格させた。2軍で4割という高いハードルを設けたのも「柳町に関してはそういうふうにしておけば、ある程度1軍に来ても数字を残すんじゃないかというのは思っていました」と、誰よりも期待していたからだった。
その後も笹川吉康外野手や、正木智也外野手らを1軍に上げて起用。柳田の“空席”を奪い合う若鷹に「そりゃあ、今しかチャンスはないでしょう」と見守っている。「柳田が健康なら回ってこないチャンス。シーズンは残り半分くらいはありますけど、1つのポジションは空いているので。それは取りに行かなかったらやめた方がいいですよ、この世界」と若手たちの底力を試すように、チャンスを与えている。そして、こう続けた。柳田の復帰について「今年は無理だと思う」――。
1軍のヘッドコーチを務めていた2021年から常々、現場の役割は「与えられた戦力で戦うこと」と表現してきた小久保監督。「今年は無理」というのも、本当に「無理」だと決まったと言うよりは、少なくとも秋までは戻って来られない柳田を戦力として計算していてはいけないというニュアンスだった。すでにファーム施設「HAWKS ベースボールパーク筑後」でリハビリをスタートさせているが、首脳陣は急がせるつもりも、無理をしてもらうつもりもないはずだ。
正木は7月に入って14打数無安打を経験した。廣瀬隆太内野手も二塁守備で追加点に繋がる失策をするなど、全力で戦っている中でミスも生まれ始めている。小久保監督も「大きな守備のミスはないですけど、試合に出ている中で、怖さも出てきているでしょうね」と現状を語る。首脳陣がグラウンドに立つ権利を与えることはできるが、知ってしまった怖さはもう、自分自身で乗り越えてもらうしかない。
「あれだけのファンが期待して今日はここしかないというところで打てなかった。そういう話をしたこともあるんですけど、やっぱり4万人近い人のため息を感じると、悔しさもありますけど怖さってありますよね。それは王監督時代、僕もよく言われました。『誰だって怖いんだぞ』って。その怖さを払拭して、いかにやれるかというのはよく言われました。その通りだと思いますね」
小久保監督は現役時代に通算2041安打、413本塁打を記録した。栄光も挫折も味わい、ホークスの上昇時代を築いたキャプテンだった。苦い経験は「自分も散々してきた」と笑いながら振り返る。「これは抽象的な精神論になりますけど」と前置きした上で、若鷹に伝えたいのは“怖さ”には自分から向き合うべきということだった。
「あえてそれを違う方法で逃げるとかっていうのは、そこを避けるよりは、メンタルを整えるというか、それなら受け入れる、経験して這い上がっていく方が強くなるんじゃないかと思うんですけどね。逃げた方がいいという人もいっぱいいるんですけど、この世界はやるか、やられるかなので。勝負の世界で生きている限りは、そこに向かっていった方が、逃げない方がいい」
数々の重圧を経験した中で、指揮官の印象に残っているのはダイエーを初優勝に導いた1999年。130試合に出場して24本塁打を記録したが、打率.234と苦しみ「前半戦のあのスランプがあったおかげで、残りの人生で『あれに比べればこんなん大したことない』と思えた。そういう経験はするべきだと、人生論としては思っていますね」と言う。信じてもらい、4番を託され続けたからこそ「僕の経験上、逃げないで王監督から4番を外されなかった経験が何よりも。あのスランプに比べたらと思えるようになった」と、選手として強くなったのは王貞治会長の影響を大きく受けている。
柳田が負傷したのは5月31日。6月1日には育成だった佐藤直樹外野手が支配下登録された。次回は、その舞台裏を激白する。
(竹村岳 / Gaku Takemura)