どん底を知った。常に自分を突き動かしてきたのは、このままでは終われないという思いだけだ。ソフトバンクの育成ドラフト1位ルーキー、大泉周也外野手が充実の春季キャンプを過ごしている。全てが初めてで「最初の方は疲れていましたけど、だいぶ慣れてきたので。ちょっとずつ強度も上げて、今はいい感じになってきています」と手応えも抱き始めている。24歳のオールドルーキーは、数々の苦難を乗り越えてホークスのユニホームに袖を通した。
山形市出身で、左投げ左打ちの外野手。山形中央高時代は通算53本塁打を放ったものの、甲子園には手が届かなかった。進路に選んだのは社会人で、日本製鉄鹿島に入社。2022年ドラフト2位でホークスに入団した大津亮介投手を輩出するなど、強豪チームの一員となったが、3年で退社した。ルートインBCリーグ「福島レッドホープス」に入団し、3年目に16本塁打でタイトルを獲得。昨年のドラフト会議でホークスから育成1位指名を受けて、プロの扉を開いた。
社会人の強豪から、あえて厳しい環境の独立リーグを選択した。順風満帆ではなかった野球人生。異色すぎる経歴を、大泉の言葉を通じて紐解いていく。転機となったのは、社会人3年目の出来事だった。
2020年11月、野球部の監督から呼び出された。年に1度、定期的にある面談で「『仕事に専念しろ』って言われました」。高卒3年目の21歳で、プロ野球でいう戦力外通告のような、肩を叩かれるという経験を味わった。「その時は何も考えられなかったです。もっとやれたというか、何もしていないのにこのまま諦めがつかないという気持ちでした」。真っ白になった頭の中でも、野球への情熱が燃えていたことだけは覚えている。
「自分を出せなかったというか、もっと勝負ができたのに……というのがあった。やり切っていたら諦めていたと思うんですけど、試合にも出られていなかったですし。そのままやめたら絶対に後悔すると思いました。自分は諦めがつかなかったので、野球をやめるのかと思ったらやめられなかった」
退社は12月で「時期も時期で、遅かった」。そこから“就職活動”が始まった。すぐに動いてくれたのが、高校時代の監督。福島レッドホープスを紹介してくれた。「実家が山形で近いというのもありましたし、監督が岩村(明憲)さんで、行きたかった球団の1つでした」と導かれるように進路が決まった。
当然、苦難の連続だった。社会人時代は寮生活だったが、福島での一人暮らしが始まった。食費も家賃も、自分が持つしかない。間取りが1Kの自宅に帰ると「1人で全部やっていたので。試合が終わって帰ってきてご飯を作って、洗濯して……。睡眠時間も足りない時もありましたし、金銭面でも苦しかった時期もありました」。試合用のユニホームはクリーニングに出していたが「アンダーシャツとかはまた次の日に使う。いっぱい持っていたわけでもなかったですし」と、多くの家事と野球を両立させなければならなかった。
社会人時代と比較して手取り給も減った。独立リーグだからシーズン中にしか給料は発生しない。「とりあえずパスタを買っておいて、お米だけ炊いて安い肉を買ってきて炒めたりして」と振り返る。なるべく原価の安いもので、空腹を満たす日々だった。オフは「現場でした」と道路を塗装するバイトをして生活を支えていた。人生初めてのバイトで、練習の合間に週3回。今も道路を直す人を見ると「『ああ、やっていたな』って思います」と目に留まるそうだ。
「(独立リーグ時代は)苦しい面もあったからこそ、ハングリー精神が出てきたと思います。どうしてもプロに行きたいという気持ちになれましたし、いい経験ができたかなと思います」
独立リーグの3年目、才能が花開き本塁打王に輝く。春先には静岡で、広島の秋山翔吾外野手の自主トレに参加した。NPB通算1565安打のヒットマンの姿を見て「意識が違いましたしストイックだったので、勉強になりました」と改めて自分を変える時間となった。自分なりに“ケジメ”をつける覚悟で臨んだ2023年。「意識ですね。もう後がなかったですし、ラストかなと思っていた。ダメなら諦めようと思っていました」と、背水の陣で掴んだプロ入りだった。
9月には25歳になる。チームメートでは正木智也外野手らと同学年だ。「支配下を取ることしか考えていないです。年齢も年齢ですし、危機感を持ってやっています」。春季キャンプのB組参加も、最初のチャンスだと捉えているはず。全ての苦い思い出を武器にして、プロの世界で勝負する。