「この出会いが大きかった、というものは?」 答えに詰まっていた甲斐野の人柄
単独インタビューの全てを公開します。ソフトバンク・甲斐野央投手が西武に移籍することになりました。国内FAで獲得した山川穂高内野手の人的補償として指名され、2024年シーズンから西武でプレーをします。鷹フルは静岡市内で自主トレをしている甲斐野投手を独占取材。33分に及んだインタビューの全文を、一問一答で掲載します。一言一句逃すことなく、甲斐野投手の“ラストメッセージ”をご覧ください。(取材日は1月12日です)
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――昨夜は眠れましたか?
「昨日? 寝られないです。初めてでした、あんなに寝られないの」
――どんな感情でしたか?
「普通に寝ようと思ったんですけど、寝る前にケータイを触っちゃってX(旧ツイッター)を見ていたりとか、ネットニュースを見ていたりしたらいろんな感情がありました。いろんな感情というか、ホークスに入ってからの5年間を思い出していたら、寂しさが出てきて、寝られなくなりました」
――泣きましたか?
「泣いてませんけどね! 涙が溢れたって書いておいてください」
――どれくらいの連絡が来ました?
「親指が攣るくらい来ました(笑)。ケータイ触りすぎて親指が潰れるくらい。マジでありがたかったです」
――どうやって知らされたんですか?
「電話です。電話が来て」
――三笠(杉彦)GMですか?
「いや、別の人なんですけど。『Zoomできるか?』って聞かれて、三笠GMと永井さん(永井智浩編成本部長)と、もう1人の3人でZoomができるかという電話だったので、ある程度は覚悟はしましたし、それでわかりました」
――11日は何をされていましたか?
「静岡に移動してきて、ホテルも前泊する予定だったので」
――静岡の自主トレは12日からだったんですね。
「そうです。ちょっと遅めだったんですけど、福岡でも全然動いていたので」
――ソフトバンクから人的補償で移籍する選手が誰かを待つ中で、どんな予想をしていましたか?
「全く思っていなかったですよ。誰になるんやろうて、もちろん僕もあり得ると思っていましたけど」
――感情が追いつかないような感じだったんですか?
「まあ驚きもありましたけど、切り替わったというか、今年から西武さんで野球するんだという感情にはすぐになりました」
――編成部からの第一声はなんでしたか?
「『あけましておめでとうございます』です。それは僕からです」
――相手はどんな言葉を。
「言葉はまあ、本題に入る感じで『今回の人的補償に甲斐野君が選ばれたということで、今年から埼玉西武ライオンズさんに移籍していただくことになりましたみたいな話です。僕も『ですよね』って感じで、わかりました、と」
――すぐにZoomは終わりましたか?
「すぐに終われたんですけど、僕もいろんな話があって、ちょこちょこ聞きたいこともあったので、それで20分くらいじゃないですか」
――人的補償という自分の意思ではない形での移籍はどう捉えていますか?
「ぶっちゃけた話、クビじゃないですし、野球ができなくなるわけじゃないですから。もちろん今年ホークスで勝ちパターンを目指していましたし、なんならオスナの座までも狙う意欲はあったので。人的になりましたけど、逆に言えば西武さんが欲しいと思って僕を選んでくれたのは間違いないこと。ドラフトの時と同じような気持ちだと自分では思います」
――一番最初に報告した人は。
「妻ですね。妻は最初に電話が来た時に隣にいて、一緒に静岡に来ていました。『多分、そうやと思う』って話はしましたけど」
――夫の移籍が決まる瞬間に、隣にいたんですね。
「いなくても、一番には妻に電話しようと思っていましたけど。隣にいようと、離れていようと、一番の報告は妻でありたかったですね」
――山川穂高選手との面識は?
「ないですね」
――バッターとしてはどう見ていますか?
「そらもう、スーパーバッターでしょう。スーパーですよ」
――11日までは「ソフトバンクの甲斐野」だった。チームメートとして山川選手の加入をどう受け止めていた。
「FAの契約を見たりしてもそれくらい球団が必要と思っている選手というのは間違いないと思いますし、確実にチームにとっても大きな戦力になる。戦力アップというか、優勝に近づくんじゃないかなと思っていました」
――「山川穂高の人的補償」ということで、過去にないほどの注目を集めていた。その決着が自分になったことに、思うことはありますか?
「うーん、そうですね。何があったのかなって気になるところはありますけど。でも選ばれたのは変わらないですし、西武さんに必要とされている思いがあるので。記事にも書いてありましたけど、僕は野球人としても人間としても、どの球団に行ってもやることは野球なので、そこに思うことはありませんね」
――ホークスを相手に投げることになる。
「それこそ昨日、先輩後輩、同級生にも電話をさせてもらいましたけど、今僕が電話をしている人が、真剣勝負の相手になるんだと思うと、恐ろしいなと。逆に言えば楽しみだと思いますね」
――ホークスで対戦したい人は?
「選手というよりも、ホークスと対戦できるのが楽しみですね」
――ここからはホークスの思い出を聞きたいのですが、東洋大で待っていたドラフトの時は、どんな心境でしたか?
「あの時はすごく高校生が目立っていたじゃないですか。藤原(恭大)、根尾(昂)、小園(海斗)、吉田輝星……。それで、西武にそれこそ僕の同級生の松本航が指名されたのかな? 一本釣りでしたよね。1位指名の時に僕の名前は出ていなかったので『まあまあ、そんな甘い世界じゃないよな』と思いつつ。外れ外れですけどホークスに指名をいただいて、すぐにホークスのユニホームでプレーしている自分を想像しようとしたんですけど、プロ野球が憧れの舞台すぎて、嬉しさよりも感動が大きかったですね」
――関西で生まれ育って、大学は関東だった。福岡はイメージできましたか?
「全然できなかったですね。ホークスがスーパースターの集いだと思っていたので、そういうイメージでした」
――会見場に座って、指名を待っていたわけじゃないですか。振り返って、一番に思い出す景色はありますか?
「なんて、うまくしゃべろうかなって感じでした(笑)」
――それこそ上茶谷大河投手(現DeNA)らと指名を待っていた。
「記者会見の時はいなかったですけどね。待っている時は一緒でした」
――ある程度、上位の指名というのはわかっていたんですか?
「ドラフトですか? いやいや、全然想像つかなかったですよ。もうどこの球団でも何位でも呼んで頂いたら嬉しかったですし、特に上位とかもなかったです」
――結果的に、1年目の2019年がキャリアハイのようになっている。改めてあの1年を振り返ってみて。
「できすぎじゃないですか。防御率が最後にドカンと上がってしまいましたけどね。色々『酷使』『酷使』って言われますけど、3連投もしていないですし。最後の最後だけだったので。その中で、投げさせていただく機会が多かった。『投げさせすぎだろ』って声も多かったですけど、僕としてはすごく経験をさせてもらいましたし、何も負の感情はないです」
――結果的に2020年に右肘の手術をすることになっても、今でもそう思える1年だった。
「そうですね。逆にあの時に怪我もせずに今の時期に大きな怪我をしていても、同じように思ったと思う。するならするで早めに。天と地を味わったような感覚でした」
――65試合に登板した中で、得たものは。
「どんなものか……。多かったですよ。一番はプロ野球の世界を経験させてもらったことですね」
――引っ張ってもらった先輩は?
「唯斗(森)さんですね。しか、思いつかないです」
――日々の球数の調整など、常にアドバイスをくれる存在だった。
「ふざけているように見えますけど、本当に考えている方。そこも含めて『あの時ちゃんと言うこと聞いておけばよかったな』って言うことは多いですよ」
――2年目には手術を経験した。2年目以降は、苦しさが目立つキャリアですか?
「苦しかったですね、ずっと。正直本当に、このまま終わるんかなって思っていました。でも確実に終わりたくなかったので、余裕で。僕の性格上でもそうなんですけど、プレーヤーのままで僕は居続けたいんです。絶対にこの素晴らしいプロ野球の世界で、終わりたくないという思いではいました」
――具体的に苦しかった時期は?
「リハビリでしょう。キツすぎ」
――手術の後ですか?
「術後ですね。怪我をした後は『痛くなる要素いっぱいあったな』って感じなんですけど。リハビリの知識も何もなかったですし、何も考えずにやっていたんだなっていうのは感じさせられました。リハビリに入ってから」
――5年間を振り返って、この出会いが大きかったというのは?
「いっぱいありすぎて、マジで決められないです。マジで。これはマジで、記事として書くのは面白くないかもしれないですけど、自分で言うのもなんですけど、すごく可愛がってもらえるようなキャラだと思うんです。自分でも。上からももちろん、下からも好かれるキャラだったと思うんですよね。嫌いな人もいたかもしれないですけど、でも人間関係のストレスは全くなかったですし、それくらいいい人ばかりだったので。誰、というのは申し訳ないですけど決められないです」
――「決められない」という答えに甲斐野投手らしさが詰まっています。
「それも、色々と思っていたら(昨夜)寝られなかったんですよ(笑)」
――人的補償が決まった時の球団からのリリースでは「復帰登板が忘れられない」と。2021年8月15日の日本ハム戦(PayPayドーム)でしたね。
「その時はコロナだったので、ファンの方々の声援はなかったんですけど、拍手。あれは忘れられないです」
――今でも、音色を覚えている。
「温かったです。温かいという表現が一番合っています」
――泉圭輔投手(現巨人)は打たれる試合が続いた時、ヤケ酒をしたことがあると言っていました。甲斐野投手は投げ出したい時はありましたか?
「それこそ1年目の時に、楽天戦の時(2019年9月24日)に負けを食らったんです。その時、僕サインミスもしてしまって、制球もバラバラでした。『これ勝ったら優勝に近づく』みたいな試合だったんですけど、そこで負けました。それはメンタルに来ました。『1年目っていう言い訳できひんな、任せられている以上は……』って自分の中で背負っちゃって」
「その時も先輩がすごく気を遣ってくれて、3人とか4人とかがご飯に誘ってくれました。全員断らせてもらって『さすがに今日はちょっと……申し訳ないです』って。先輩たちも気を遣ってくれて『そういう時もあるよ』『1人でゆっくりしな』って言ってくれました。食事会場にも行かずに、1人でコンビニに行って、ご飯を買って、部屋で飯食ってました」
――何を食べたか覚えていますか? コンビニのお弁当?
「一応、次の日もあったので、あんまりその脂っこいものじゃなくて、うどんみたいなのを食べた気がします。それで早く寝ようって」
――今振り返っても覚えているよな、仙台の夜だったんですね。
「それこそ、ファンの人ですね。僕1年目でしたけど“喝”というか、そんな感じの声をかけられました」
――野次、ですか?
「野次って言ったら表現の仕方は良くないと思いますけど。『プロ野球すげえな……』ってその時も思いましたし、ファンの人にとっても当たり前だよな、そりゃ怒るよなって思いました。それだけ、ファンの方々の気持ちを背負っているんだと気づかせてもらった試合でもあります」
――今回の移籍を踏まえて、ファンの方々に伝えたいことはどんな思いですか?
「いやもう、感謝しかないですね。僕のこういうキャラを許してもらっているのも、もちろんファンの方がいてくれるから。プレー以外のところで結構目立っていましたけど、テレビだとか。そういう時でも『そういう甲斐野がいいと思う』って声もかけてもらいました。ファンの人にも愛されているなって、マジで感じていました。それこそ今回も寂しいですけど、野球ができなくなったわけではないので。僕は僕でできることが必ずあるので、それをやっていきたいですね」
――最後に、1996年生まれの同級生に1人ずつメッセージをお願いします。
「おお、いいですね!」
――まずは栗原陵矢選手から。
「クリ、うん。お疲れ!」
「いやでも、クリとの初めてはめちゃくちゃ覚えているんですよね。僕が筑後で新人合同自主トレでブルペンに入った時に、あいつが後ろにいたんですよ。それこそ96年の堀内汰門と、ずっとひょっこり見ていたんです、僕のピッチングを。多分2人も、大学を卒業した僕と同級生ですし、気になっていたんでしょうね。結構しゃべりかけてきてくれました」
「僕もさすがに、このキャラですけど若干人見知りな部分ももちろんあるんで、出過ぎれない。そのまま話して終わるんかなって思ってたら、僕たちまだ寮生だったので、お昼を食べた後に『ちょ、部屋来てや』って言われて。汰門の部屋に行って、練習終わってから風呂にも入らずにトランプしたのを覚えていますね。汰門と、クリと」
――それこそ2021年8月15日の復帰戦、甲斐野投手がベンチに戻る時、栗原選手が笑顔でハイタッチに来ていたのをすごく覚えています。
「あの時はサードでしたよね。外野でも出ていましたけど、コンバートもし始めた時ですか? 僕はセットポジションなので、そのまま見た時にあいつがいるのはちょっと不思議な感覚でした。でもちょっと余裕を持たせてくれる、そんなクリですね」
――キャラ的に、2人が1996年の中心だったのではと思うのですが。
「とりあえず、人的補償で移籍が決まった時に僕電話したんですけど、彼出てくれなくて、アメリカにいたので。僕もテンパっていてそれを忘れていて『電話全然出ぇへんやん』って思っていました(笑)。そしたら夜にテレビ電話がかかってきて『あ、そっか。お前アメリカか』『ごめんごめん』って。結構驚いた表情はもちろんでしたけど、テレビ電話でも寂しさが伝わってくるような顔をあいつはしていましたね」
「なんだかんだ、寂しいなって。あとは対戦できるのが楽しみだねって」
――「央、寂しいわぁ!」って言っていたのでは。
「めっちゃ言ってましたね。ランナーに出たらふざけ出すかもしれませんね(笑)」
――続いて、松本裕樹投手。
「マツは、僕高校の時に対戦もしていましたし、高校時代からスーパー。すごく目立っていましたね。あのキャラなので、ちょっと人見知りじゃないですけど寡黙な感じかなと思っていました。でもどんどん距離が近づいていくにつれて、同級生会とかもあいつから『したい』って言い出すようになりましたし。マツってこんな部分あるんやって思ったり」
「今回も連絡がきて、本当にびっくりしたんですけど『引越しの手伝いとか、できることあったら言ってな』って連絡が来て、マジで嬉しかったです。びっくりしましたね、マツってこんなこと言うんやって」
――感謝はありますか?
「野球の話は一番、ピッチャーの中でもしたんじゃないですかね。お互い頑張ろうとマツも言ってくれたので、頑張りたいですね」
――藤井皓哉投手は。
「藤井は、広島から1回戦力外になって独立リーグに行って、ホークスに育成で入ってきましたけど『本当にこいつ1回クビになったんか』ってくらい実力がありましたし。最初は正直、僕も怪我をして2軍にいて、藤井が1軍で投げている姿を見て悔しかったです。『俺が絶対に投げないといけなかったポジションなのに』って思いもあったんですけど、今となっては絶対に必要な存在だと思います。野球についても、野球脳とかも、すごくリスペクトしている部分があります」
「プライベートではそんなに関わりは、同級生会くらいでしたけど。ドームで会う藤井はオーラがありましたし、また今後とも頑張っていきたいと思います」
――笠谷俊介投手は。
「シュンは……。頑張れって感じです。お疲れって書いておいてください」
――連絡は来ましたか?
「来ました、テレビ電話が来ました。あいつ今日も朝、LINE来たんですけど『なんかわからんけど、お前のニュース見て悲しかったんか知らんけど、起きたら“ものもらい”できたわ。めっちゃ目腫れてたわ』っていう、意味のわからないLINEをしてくる左投げのAB型です」
――野村勇選手は。
「勇は同じ兵庫県の出身でもありますし。正直、まだあいつはキャラを出していないんじゃないかっていうのがあります(笑)。初めてご飯に、拓さん(甲斐拓也捕手)と3人、4人で行ったんかな。勇に『お前全然しゃべりかけてきてくれへんやん』って言ったんですよ。そしたら『ちょっと怖い』って言われたのがすごい印象的です(笑)。そんなこと思われてたんやって」
――甲斐野投手と栗原選手を含めて、3人がボケ担当みたいな感じだと思っていました。
「勇は特殊ですよ! 関西人の中でも飛び抜けて面白いタイプだと思いますね(笑)。でも勇も絶対にホークスの顔になるべき選手と思うので、活躍しているところを見たいです」
――泉圭輔投手は。
「圭ちゃん、うん。お疲れ(笑)」
「圭ちゃんは(1996年の)マネジャーとして、業務を果たしてくれました。あいつの方が先に出ていくことになって、僕も寂しいなって思っていたら出ることになりました。同じ東京近辺ということで、それこそ泉からも連絡が来たんですけど。『人的なんや』って感じかと思ったら、第一声が『家決まった?』だったんで。いや、早すぎるやろってツッコミました(笑)。最後の最後までマネジャーの業務を果たそうとしていましたね(笑)」
――支配下の同期入団の中でも、同級生。甲斐野投手と泉投手にしかない空気も感じていました。
「泉はそうですね。正直、同級生は全員仲良いですけど、僕は泉ならよく家にも泊まりに行っていましたし。一番気を使わない人間だなと。僕だけじゃなくて、そういう力をみんなに対しても持っていると思います。本当にナイスガイ。マウンドで、豹変してほしいですよね、それが」
――重田倫明広報、岡本直也投手は。
「岡本は今回自主トレも一緒ですね。最初は全然あいつドラフトで入ってきた時、しゃべりかけてもこなくて、アイコンタクトすらなかった。それで最初、寮の中で岡本の部屋にゲームして集まっているっていうのを聞いて、岡本の部屋に行くようになってからですね、仲良くなったのは。それまで本当に一言もしゃべったことなかったんですけど、今となっては、岡本は僕のことを一番の親友って言うので(笑)。このライオンのヘアバンドをくれたのも岡本ですし、気が利く優しいやつですよね」
「重田も連絡が来たんですけど、正直あいつが一番悲しがっていました。今年からあいつは広報ということで仕事が変わるんですけど、一番悲しんでくれましたし『西武に行った央も』っていう話もしてくれました。本当に性格のいい男だと思いますね、ナイスガイです重田は」
――ホークスの1996年生まれの同級生は、どんな存在ですか?
「本当にいてくれてよかったですよ。ここまで仲のいい96年世代の球団はないんじゃないかっていうくらい、ここが好きでした。本当に寂しいですけどね。僕がもし、西武に行って活躍したらみんな喜んでくれると僕の中では思っています。僕も頑張りたいなって思いますし、本当にかけがえのない存在です」
――それぞれが、少しずつ自分だけの道を歩むようになってきた。
「いつまでも甘えてんじゃないよって、野球の神様が言ってくれているのかもしれないですね。仲良しこよしでやっているんじゃないよって。そんなつもりはないんですけど、自立しなさいということなんですかね」
――最後に、鷹フルの取材は、いかがだったでしょうか?
「素敵でした。素敵です。1年とかですよね? 今後出てくる記者さんたちじゃないですか? って言っておきます(笑)」
――今年のオフも絶対、1996年会をやりたいです。
「今年も、ぜひ呼んでいただけるなら参加させていただきます」
――また泉投手に、マネジャーになってもらいましょうか。
「そうですね。泉に仕切ってもらいましょう。泉かマツ(笑)。それも楽しみですね」
(竹村岳 / Gaku Takemura)