【連載・甲斐拓也】滲んだ文字、心を揺さぶる言葉… WBCを共に戦った亡き先輩の“形見”

野球日本「侍ジャパン」の一員として世界一に輝いた甲斐拓也【写真:小林靖】
野球日本「侍ジャパン」の一員として世界一に輝いた甲斐拓也【写真:小林靖】

「チャンピオンになるためなら、そのぐらい犠牲にしてでも、と」

 ホークスの4選手が毎週登場し、野球や私生活のことなどを語る鷹フル月イチ連載、甲斐拓也捕手の5月度「前編」です。「第5回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」で侍ジャパンの一員として世界一に貢献した甲斐は、亡き先輩の“形見”を携えて同大会に臨んでいた。次回の甲斐選手の連載「中編」は5月4日、木曜日に掲載予定です。※4日に掲載予定だった「中編」は都合により掲載延期となりました。悪しからずご了承ください。
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 世界一を目指す戦いを目前に控えた2月半ば。楊志館高校時代の野球部の監督で恩師でもある宮地弘明さんから夫人を通じて、何冊かのノートを手渡された。甲斐より2学年上で同高野球部のマネージャーだった大崎耀子さんが、生前に書き綴っていた日記だった。

 後輩からも“あっこさん”と慕われていた大崎さんは甲斐の2歳年上。甲斐が入学した時には、すでに末期の上咽頭がんを患っていた。病と闘いながら、マスク姿で献身的に部員をサポートする姿に当時1年生だった甲斐も胸を打たれたという。2008年、17歳で生涯を閉じた“あっこさん”。甲斐が今もホームベース上に記す「心」の一文字も“あっこさん”が好きだった言葉だ。

 ノートは“あっこさん”の日記だった。誰よりも野球を愛していた“あっこさん”をWBCという世界最高峰の戦いに連れて行ってやってほしい、とてつもないプレッシャーの中で戦うことになる甲斐の心の支えになってほしい――。そんな思いから宮地さんが甲斐に託したのだった。

 甲斐はノートを手にした時のことをこう振り返る。

「簡単には、預かってすぐには見られなかったです。中途半端な気持ち見ることはできないですし、その日すぐに見ることはなかったです。生半可な気持ちで見てはいけないというか……。それだけのものを感じたノートでした」

 ノートを預かったのはホークスの宮崎キャンプ中だった。まだ侍ジャパンの合宿も始まっておらず、ノートを開くことはできなかった。「ジャパンに行ってから見ようと思っていて、合流してから開きました」。2月16日にホークスのキャンプを離れ、侍ジャパンのキャンプへ。翌17日から練習が始まり、ようやく意を決してノートを開いた。

「言葉が出なかったですね。これがもう本当に素直なところで……。17歳ぐらいの高校生が書いた日記で、泣きながら書いたのか分からないですけど、文字が滲んでいたりして……。すごく悔しかっただろうし、その時のあっこさんの思いが1個1個詰まっているので……」

 振り返る甲斐も言葉に詰まるほど。闘病中に記された1つ1つの日記には“あっこさん”の日々の思いだけでなく、野球への情熱も綴られていた。その中には甲斐の心を強烈に揺さぶる言葉もあった。

「『私は野球のために野球を犠牲にしている』という言葉があったんです。それぐらい犠牲にしろ、甲子園のためだろって書いてあって。『野球のために野球を犠牲にしている』という何とも言えない言葉が詰まっていました。その言葉の一つ一つというのは何て表現したらいいのか分からないくらい、言葉が出なかったですね」

「僕らは今も野球をやっていますけど、遊ぶ時間だってあるわけじゃないですか。それを犠牲にしてまで野球に打ち込んでいない自分もいたりする。でも、あっこさんは甲子園のためならそれぐらい犠牲にしろと……。僕らもチャンピオンになるためなら、そのぐらい犠牲にしてでも野球に打ち込まないといけないな、と思わされました」

 全てを犠牲にしてでも、野球に打ち込む情熱と覚悟。“あっこさん”が綴った一言、一言に甲斐は心を打たれた。3月9日から始まった本大会。甲斐は1次ラウンドの中国戦、チェコ戦、準々決勝のイタリア戦でスタメンマスクを被った。もちろん、その間も、そして準決勝、決勝の行われたアメリカにも“あっこさんのノート”はバッグの中にあった。

「奮い立つ思いがありましたね。本当にそういうふうに思いました」。世界一に輝いた侍ジャパン。中村悠平捕手(ヤクルト)、大城卓三捕手(巨人)と共に扇の要を担った甲斐は亡き先輩への思いも胸に、世界と戦っていた。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)