今月4日、みずほPayPayドームで契約更改交渉に臨んだ。現状維持の4億円(金額は推定)でサインし「『開幕投手に始まり、1年間投げてくれた。本当によくやってくれた』と言ってもらえた」。ファンの思いを代弁したような言葉を、球団からもかけてもらえた。すでに小久保裕紀監督から、2025年の開幕マウンドを託されることを通達されている。「今年と変わらず、来年もたくさん投げられたら」と、今度こそ日本一になるために、投手陣の先頭に立ち続けていく。
2014年ドラフト1位で早大から日本ハムに入団。アマチュア時代から注目され、ルーキーイヤーには新人王も獲得するなど着実にキャリアを積み重ねていた。2020年オフにポスティングシステムを利用して、メジャーに挑戦したが、2年間で通算3勝に終わった。米国での時間も「挫折とは思っていないです」という。何を学んで、日本球界に帰ってきたのか。
「思い描いた形ではなかったですけど、そういう経験ができたことは今に生きていると思います。アメリカに行く前よりはピッチングのレベルも上がっていると思うので、いい経験はできた、勉強できたと感じています」
具体的に挙げたのは、日米による練習方法の違い。「アメリカは、自分で練習する時間が多い。昔と比べると日本もそうなってきている部分はありますけど。自分に何が足りないのか考えて練習するのは、すごく感じました。全体練習ってすごく時間が短いので」。指導者が、手取り足取り教えるような世界ではない。選手の数も多いだけに、自分で成長できなければ生き残っていけないことは明白だった。「どれだけ野球に対して時間を使えるのか。すごく人によって違いました」と、今も胸に刻まれている。
レンジャーズで、“チームメート”になったのが倉野コーチだった。2021年オフにホークスを退団し、指導者としてキャリアを積むために海を渡った。面識はなかったというが、初対面に有原も「最初は覚えています。まさか一緒になるとは思っていなかったので、ちょっとドキドキしていましたけど。(広大なキャンプ地で)離れているんですけど、球場が一緒で、ちょっと場所が違うだけだったので。その日に倉野さんがいることはわかっていたので、話をしに行きました」。リーグ優勝に輝いた2024年、投手陣を引っ張った2人が出会った瞬間だった。
成長するために海を渡る指導者は、まだまだ珍しい部類だろう。熱い志を胸にアメリカにやってきた倉野コーチには有原も「ホークスでも長くやってらっしゃったので、そこから新しい環境というのはすごい挑戦だと思いますし。挑戦して得るものは僕もたくさんありましたし、倉野さんもそうおっしゃっていたので」と、共鳴した。言語や文化の壁にぶつかりながらも、2年間で得たものは今も2人を力強く支えている。
有原は2023年にホークスの一員となり、1年遅れて今季から倉野コーチは古巣に復帰した。「向こう(アメリカ)でも食事に連れて行ってもらいましたし、僕から『よろしくお願いします』と連絡しました。(ホークスで)『一緒に頑張ろう』と話をしました」。開幕投手に始まり、リーグ優勝で結実した2人の道。右腕にとって倉野コーチは、どんな存在だったのか。
「僕は(日本ハム時代から)敵ベンチから見ていてもらったので、その時にどういうふうに見えていたのか。アメリカでやっている時も『今どういうふうに見えていますか?』って話もさせてもらって、フォーム的にも、考え的にも聞いているところはあったので、すごく心強かったです。まさかこういう形で一緒にできるとは思っていなかったので。今年はキャンプから、いい調整をさせてもらった。その結果、シーズン最後まで投げられたので、倉野さんには感謝しています」
投手陣のトップとして統括してきた倉野コーチは、有原の気持ちの強さを「チームの中でもダントツ」と表現していた。14勝を挙げ、先頭を走った右腕。様々な経験を力に変えて、ホークスを頂点に導いた。