井口資仁氏が2003年の「ダイハード打線」を振り返った
ダイエー(現ソフトバンク)やメジャーリーグでも活躍した野球解説者の井口資仁氏がホークスを語るコンテンツ(不定期掲載)。第8回は驚異的な破壊力で球界を席巻した「ダイハード打線」について。2003年は主に3番打者として盗塁王を獲得し、「100打点カルテット」の一翼を担った井口氏は、「果てしなく打っていましたね」などと当時を回顧した。
「チーム打率.297ですから。ホームランもあれば、打点を稼ぐ人もいて、1~3番で100盗塁していましたからね。リードされていても5、6点ならすぐにひっくり返せると思っていました」
チーム打率.297は、1999年の横浜(現DeNA)が記録した同.294を上回り、現在も日本プロ野球記録として残っている。3番の井口氏(109打点)、4番・松中信彦(123打点)、5番・城島健司(119打点)、6番ペドロ・バルデス(104打点)は「100打点カルテット」として他球団から恐れられた。この年のチーム総打点は794。リーグ2位の近鉄(現オリックス)が695なのだから、その凄まじさは一目瞭然だ。
さらに1番・村松有人(32盗塁)、2番・川崎宗則(30盗塁)、井口氏(42盗塁)はリーグの盗塁上位3傑を占めた。下位には大道典嘉、柴原洋、鳥越裕介といった“クセ者”や、大砲のフリオ・ズレータが並び、相手投手からすれば息もつけぬラインナップだった。
破壊力抜群の打線が誕生した要因は“競争意識”にあったと井口氏は振り返る。「チーム内にライバルがいた感じでした。僕でいえば、打つことに関しては城島。走ることでいえば村松さんや川崎でした。それぞれの中に“誰々が打ったから、誰々が走ったから自分も”というのはあったと思います」。
2003年はオープン戦で主砲の小久保が重傷を負い“シーズン絶望”に…
主に3番を任されていた井口氏と、1、2番に座っていた村松、川崎との間では、走ることに関しての“ルール”は特になかったという。「ファーストストライクで走ったら待つということは、取り決めというより野球のセオリーという感じです。ランナーが走ってくれることで、私も得点圏に走者を置いた状況で打席に立てました」。
また自身が出塁した後も、4、5番の松中、城島との取り決めも特になかったという。「僕は『走った時は全然打ってください』と言っていました。(投手の)初球の入りだったり、カウントを見ながら走っていたので。あまり(カウントが)早い段階でいくというのはありませんでしたから」と明かした。
この年はオープン戦で主砲の小久保裕紀が本塁でのクロスプレーで右膝に重傷を負い、シーズン絶望となった。皮肉にも、その小久保に代わって起用され、大ブレークしたのが高卒入団4年目の川崎だった。
他球団を圧倒する打線で3年ぶりのリーグ優勝を果たし、その勢いのまま日本シリーズも制した2003年のホークス。現役引退後にロッテで指揮を執った井口氏に、当時の打線を相手に勝つ方法を聞いた。
「あの打線は無理でしょ(笑)。自分たちが(それ以上に)点を取らないといけないので。逆に僕はそんなチームの監督をしてみたかったと思います」。同年に打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁をマークした井口氏は笑った。
(湯浅大 / Dai Yuasa)