甲斐野央が愛される理由…胸を打たれた後輩からの激励 支えてくれた全てへの「感謝」

ソフトバンクの声出しの様子【写真:荒川祐史】
ソフトバンクの声出しの様子【写真:荒川祐史】

西武に人的補償で移籍へ…2023年のシーズン中、奮起を誓った5月の出来事

 ソフトバンクは11日、西武から国内FA権を行使して獲得した山川穂高内野手の人的補償として、甲斐野央投手が移籍することを発表した。「突然のことではありましたが、ホークスには本当にお世話になり感謝しかありません」と、球団を通じての第一声は感謝の言葉だった。ホークスで過ごしたのは5年間。2023年のシーズンを思い返す中で、甲斐野自身が“愛されている”と確かに感じた瞬間があった。昨年5月の出来事だ。

 2018年ドラフト1位指名を受けて、東洋大から入団した。1年目から65試合に登板して、野球日本代表「侍ジャパン」にも選出。誰もが順風満帆なステップを疑わなかったが、2020年12月には右肘の手術を受けた。1度は保存療法を選択したが、状態はなかなか上向かず。肘を曲げれば痛む。お風呂では、右腕を使って頭を洗うこともできなかった。2021年8月に1軍復帰を果たし、怪我をしないフォームを求めつつ、一歩ずつ投手としてのレベルアップを図ってきた。

 結果的にホークスとは一旦“区切り”のシーズンとなった2023年は、46試合に登板して3勝1敗、2セーブ、防御率2.53。2022年は25イニングを投げて14四球。2023年は42回2/3を投げて13四球と、課題だった制球面にも改善が見られ「今年取り組んできたこと。続けていった上で、もう少し細かい精度を課題にしていけたら」と、必ず今季につながるものを見つけたようなシーズンだった。そんな甲斐野が「自分の実力不足」を痛感していたのが、春先だった。

「キャンプからやってきて開幕1軍を目指していたところで、自分の実力不足で2軍に落ちた。自分の実力というのが出たし、このままいても本当につまらない選手になると思ったので。自分自身、悔いのないように、やれることをとりあえずやって、ダメなら仕方ないと。自分がこれがいいと思ったものを信じて、継続していこうと思ったのがスタートで2軍でやってきました。それが継続していくたびにいい形になってきたので自信にもなりました」

 3月のオープン戦、甲斐野は6試合に登板して防御率11.12と結果を残せず、開幕1軍を逃した。「すごく悔しかったです。そこを本当に目指していたので、スタートダッシュが肝心だと思っていましたから」。取り組みが結果に繋がらなかったことで表情も晴れず「俺、こんなもんやな……」と呟いたことも。2軍落ちを告げられた時、斉藤和巳1軍投手コーチ(今季から4軍監督)からかけられた「今やっていることは間違いじゃないから、続けていこう」という言葉を信じながら、自分なりに前を向いてきた。

 そして5月13日、待望の今季初の1軍昇格を果たす。甲斐野が“愛されている”と感じたのは、この時だ。

「自分の家族もそうですし、2軍から1軍に上がる時に、選手とかスタッフも、名前はちょっとたくさんいるので挙げられないですけど『甲斐野さん、マジで頑張ってきてください』とか、連絡をくれた選手、後輩、スタッフがいました。それくらい応援してもらっているんだなと、ここまで応援してもらえるのもなかなかないと思うので、嬉しかったですし、それも活力になっています」

 プロ野球の世界は、誰かが試合に出れば、誰かがベンチに座る。自分自身の生活と人生をかけて、競争を勝ち抜かないといけない厳しい世界だ。その中で「たくさん」の人たちから激励、応援の言葉をもらったのだから、誰よりも甲斐野自身が「頑張らないといけないなと思いました」という出来事だった。その明るいキャラクターに、後輩からも「甲斐野さんみたいにはなれないです。あそこまでできるのはすごい」と聞いたこともある。栄光も挫折も味わった5年目、振り返ればたくさんの後輩が自分の後ろについてきてくれていた。

西武への移籍が決まった甲斐野央(左)【写真:荒川祐史】
西武への移籍が決まった甲斐野央(左)【写真:荒川祐史】

 家族の存在も支えだった。右肘手術から長期のリハビリ生活を経験し「本当に何もできないです」という日々でも、兵庫県にいる実家の家族を心配させたくない。“甲斐野家”のグループLINEへの連絡は、できるだけ怠らなかった。キャッチボール再開や、ブルペン投球。復帰への段階を踏んだ時は、必ず映像付きで家族に報告した。「もうちょっとやな」「頑張れ」という言葉が嬉しかった。2021年1月には一般女性と結婚。「僕がグラウンドでプレーする姿を一番見たいと思っている存在ですよね」。家族がいたから、甲斐野央は今ここにいる。

 筆者が初めて言葉を交わしたのは、2020年1月。名刺を手渡して挨拶した。驚かされたのは、1か月後の春季キャンプ。朝の練習前、先輩やコーチにも、報道陣の1人1人にも、帽子もサングラスも取って「おはようございます」と目を見つめて挨拶した。謙虚な姿勢の“原点”を聞くと「これまでの指導者の教えがそういうものだったんです」とプロの選手になっても、お世話になった人の存在を大切にしていた。グラウンドにゴミが落ちていれば当然のように拾って、お尻のポケットに入れる。明るさはもちろん、熱さも謙虚さも持っているから、誰からも愛された。

 辛いリハビリを経験したことで、ファンの大切さも思い知った。コロナ禍もあったものの、手術から復帰して以降は毎日のように丁寧にサインを書くなど、ファンサービスに応じる姿を何度も見てきた。「野球ができていることにまずは感謝すること、怪我をしないことが一番ではありますし、バッターに投げる楽しさだったり、試合でマウンドにあがる楽しさを今はすごく感じています」。ファンとの距離感において意識は明確に変わり、自分から歩み寄るようになった。

 この日に移籍が決まり、球団を通したコメント。その全てに、甲斐野らしさが溢れていた。

「最後にホークスファンの皆さんにも感謝を伝えたいです。良い時も悪い時も声援を送ってくれて、福岡の街を歩いていてもよく声をかけてもらいました。怪我から復帰した時にマウンドで受けた声援はずっと忘れません。今後のホークス戦でも、こっそり僕だけ応援してほしいです。これからも野球人としてやるべきことは変わりませんので、ブレずに自分らしく頑張っていきたいと思います」

 大好きだった選手が、本人の選択ではない形で移籍をするのは複雑な思いであり、すごく寂しい。球団から発表された後の午後6時前、甲斐野に電話をかけた。忙しさも重々承知していたため言葉を交わしたのは1分ほどだったが、ハッキリとした口調で、こう言われた。「ありがとうございました。お世話になりました」。甲斐野央、君がいた5年間を絶対に忘れない。いつもファンを笑顔にしてくれて、本当にありがとう。

(竹村岳 / Gaku Takemura)