偶然だったグラウンドキーパー就職「何か分からなかった」
■ソフトバンク 5ー3 楽天(27日・PayPay)
ホークスを陰ながら支えてきた熟練の職人が最後の日を迎えた。27日に本拠地PayPayドームで行われた楽天戦。その道36年、グラウンドキーパーとして、選手たちが最高のパフォーマンスを出せるようにと、最良のグラウンドコンディションを作り出してきた徳永勝利さんにとって最後の試合となった。練習開始前には首脳陣、選手、スタッフがグラウンドに集まり、徳永さんに花束を贈り、試合も見事に5-3で楽天に勝利。試合後はヒーローとなった森唯斗投手、栗原陵矢外野手と共にお立ち台へ上がった。
「ビックリです。なんでグラウンドキーパーがお立ち台に上がるんやって。嘘でしょ、と思いました。でも本当に栗のホームランは僕の一生の思い出になったので、ありがたかったです。本当に今日の試合は、僕の一生の思い出になりました」と語った徳永さん。36年間のキーパー人生を振り返り「選手が怪我をしないグラウンドを作るのが一番の目的でした。一生懸命、努力をしてきたつもりです。そこで選手がベストパフォーマンスを出せるということが必要。それが難しいんですけどね」と、グラウンドキーパーとして仕事をする上での矜持を語ってくれた。
36年前、徳永さんがホークスのグラウンドキーパーになったのは偶然だった。「福岡出身なんですけど、もともとは仕事で県外に出ていたんです。やっぱり福岡で仕事をしたいなと思っていたら、たまたま平和台球場のキーパーを探していた。福岡で働けるならと思って行ったんですけど、グラウンドキーパーそのものが何か分からなかったんです」。グラウンドキーパーを志していたわけではなく、ひょんな縁からホークスが後に本拠地にする平和台球場のグラウンドキーパーになったのが始まりだった。
「やりたくて入ったのではなくて、行ったらその仕事だったっていうが始まりなんですよね」と36年前を懐かしそうに振り返る徳永さん。グラウンドキーパーとしてのやりがい、熱意を持つようになったのは、ホークスが福岡に本拠地を移して2年後の1991年。高知県で行うようになったキャンプがキッカケだった。
「初めてキャンプに呼ばれたんですよね。僕ともう1人、同じぐらいの年代のキーパー2人で行ったんですけど、2人ともベテランではないし、行った先でその仕事を教えてくれる人も誰もいなかった」。2月1日のキャンプイン前日、当時のコーチがグラウンド状態の確認に球場を訪れた。地方球場ということもあり、グラウンド状態はあまり良くなく、小さな石が転がっていた。それを見たコーチは徳永さんらにこう言い放った。
「こんなグラウンドで練習できるか!」
徳永さんともう1人のキーパーは、慌ててグラウンド整備に動いた。グラウンドの土を集め、ふるいにかけて小石を取り除き、そしてならしていく地道な作業を繰り返した。「夜中まで作業をやってなんとかキャンプインを迎えましたよ」。作業は夜中までかかった。初めてキャンプ地に来たばかりの“新米キーパー”が必死に汗を流して、1日で練習できる状況にまで整えた。
この経験が36年間、キーパーを続ける原動力になった。「それを言われたことが悔しくて、こういうことを言わせないようにしようって思って(仕事に)のめり込み出したというか……。こういう人を黙らせてやろうっていうのがあったんです。それで一生懸命になって、自分で覚えたり、何をやったら良くなるのか考えたり、教えてくれる人がいない環境だったから、集中して取り組みました」。そこからは毎日のように、グラウンドのことを考えた。
キーパー人生で、忘れられない出来事がある。高知でのキャンプでは球場横にエアテントを張って室内練習場にしていた。室内といえども、地面は広場のような固い土。「そこで今の村松コーチがスライディングで骨折したんです。僕はその瞬間を見たんです。僕らが整備しようにもやれない環境だった」。その時に感じたもどかしさ。グラウンドが原因で、選手が怪我をするなどあってはならない。だからこそ選手が安全に、ベストなパフォーマンスを発揮できるように気を配ってきた。
徳永さんが整えてきたグラウンドは本拠地だけではない、ファームがかつて使っていた雁ノ巣球場、キャンプを張っていた高知、そして現在もキャンプを行う宮崎……。キャンプが始まると、生目の杜運動公園で早朝から日が暮れるまでグラウンドを整備してきた。選手たちが白星で飾った徳永さんの最後の試合。こういった陰で支えている人の尽力があるからこそ、選手たちのベストなパフォーマンスを見られることを忘れないでほしい。
(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)