1球で悟った「戦力になれない」 迎えた我慢の限界…武田翔太がひた隠しにした痛み

契約更改交渉に臨んだソフトバンク・武田翔太【写真:竹村岳】
契約更改交渉に臨んだソフトバンク・武田翔太【写真:竹村岳】

2024年はプロ入り後、初の1軍登板なし…4月に右肘手術「今年にかける」

 復帰までどれだけ時間がかかっても、決断するしかなかった。メスを入れると決めた瞬間を明かした。「ダメだな……」。ソフトバンクの武田翔太投手は7日、みずほPayPayドームで契約更改交渉に臨んだ。現状維持の1億5000万円(金額は推定)でサインし、「今月から傾斜を使って投げます。予定としては順調です」と右肘の現状を語る。

 2024年は、プロ13年目にして初の1軍登板なしに終わった。4月に「右肘内側側副靭帯再建術および鏡視下肘関節形成術」、いわゆるトミー・ジョン手術を受けた。「今年にかける思いは強いですし、大きな手術も経験して、進化したところも見てもらえるように頑張りたいと思います」と今後を見据える。「大急ぎの設定はしていなくて、余裕を持ちながらここまでやってきた。1個1個、球団のプログラムに従ってやっています」と足元を見つめた。

 2025年は、4年契約の最終年となる。6月前後での復帰を目指しているが、キャリアを考えても真価を問われるシーズンになることは間違いない。大切な“契約4年目”に、右肘の手術がどれだけ大きな影響を与えるのか。それをわかっていても、武田にはメスを入れなければならない理由があった。

「戦力になれないな、って思ったんです」

 昨年2月の春季キャンプ中。まだまだ肌寒いのはもちろんだが、武田は毎日長袖のアンダーシャツを着ていた。右肘に施したテーピングを隠すためでもあった。ブルペンに入る回数も最小限にして、治療とトレーニングを重ねて打開策を探した。競争して勝ち抜かないといけない立場ではあったものの、倉野信次1軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)は決して焦らせなかった。中継ぎの一角に入ってきてほしくて、期待を寄せていたからだ。

 我慢が限界を超えたのが、2024年3月5日。ヤクルトとのオープン戦(みずほPayPayドーム)だった。5回からマウンドに上がり、西川への初球だった。狙いとは“真逆”、引っかけたようなボールは足への死球となり「あれでダメだなって思いました。アウトコースにキャッチャーが構えていて、自分の中でも完璧に『そこに行った』っていう感覚で投げたのに、肘から先がもう言うことを聞かなかった」。2回を投げて49球、まさに決死の投球だったのだ。

 1度決めたら、行動は早かった。試合後、すぐに首脳陣のもとに向かい、リハビリ組での調整を直訴した。倉野コーチも「本人の中では答えがあって、だけど一歩踏み切れなかったのがあって、僕が背中を押した感じに、結果的にはなった」と明かしていた。熟考の末に手術を決断。武田も「僕が今年で野球を辞めるならいいですけど、まだまだやりたいから。『申し訳ないですけど、1年いただきたいです』って話をしました」と球団とのやり取りも明かす。

 2019年にも右肘は手術したが「あれは内視鏡だったので」と、今回のトミー・ジョンとは別物。実は2022年あたりから痛みは感じていたが、保存療法で状態を上げながらなんとかマウンドに立ち続けてきた。「メスはどこかで入れないといけないなっていうのは、わかっていたんです。それをどこで入れるのか、タイミングでした」。ヤクルト戦で、今の自分では戦力になれないとハッキリ自覚してしまった。時間がかかることはわかっていても、自身の野球人生を考えれば、もう選択肢は一つしかなかった。

 復帰までは1年半。毎日がファーム施設「HAWKS ベースボールパーク筑後」との往復で、単調な日々ではあったが「やることはめちゃくちゃあったから」という。研究熱心な性格は健在。新しい投球を見つけようと没頭していれば、時間はすぐに過ぎた。リハビリ組での取り組みは球団側も評価しており、三笠杉彦GMも「もちろん期待しています」と語る。4年契約のうち、3年間でわずか7勝。それでも、信じてもらえるのは、高いポテンシャルと野球への飽くなき探究心を周囲も知っているからだ。

 昨年12月には渡米し、ノースカロライナ州にある施設でトレーニングを積んだ。1月にも再び訪れる予定で、渡航費や現地での生活費は数百万円にもなった。「それも先行投資です。大事なことですから」。できることは限られているとしても、絶対に妥協しない。「今やるべきことが見えていないと、その先はない。結果は後からついてくる気持ちで、腹を括ってやります」。いつか必ず報われると信じて、祈りを込めて走り続ける。

【昨年12月、米国の施設で投球練習に励む武田翔太:本人提供】

(竹村岳 / Gaku Takemura)