失意の「戦力外」からおよそ1か月――。新天地が決まった三浦は清々しい表情で“3年間”を振り返った。たくさんの人の顔が浮かび、こみ上げてきた思い。「2軍、3軍の関係者をはじめ、多くの人に感謝したいです」とうなずいた。悔しさをぬぐえずにいた左腕を前に向かせたのは、小久保裕紀監督からの一言だったという。
昨季は厚い選手層に阻まれた1年だった。2軍での登板機会もなかなか得られず、悔しさは募っていったが、当時2軍を率いていた小久保裕紀監督は気に掛けてくれた。数少ないチャンスをことごとくものにできなかった時には、叱咤激励も受けた。そんな三浦を支えてくれたのは若田部健一3軍投手コーチ、中田賢一投手4軍コーチ(役職はいずれも当時)だった。
「若田部コーチには去年3軍で、中田コーチにも2年間たくさんのことを教えてもらいました。小久保監督には厳しい言葉をもらったので、すごくありがたかったです。そのお陰で、今年はいい結果を残せたと思います」。今季は支配下登録を勝ち取り、2軍では最優秀防御率のタイトルを獲得。飛躍を遂げた背景には多くの支えがあった。
ホークスでの3年間、左腕の印象に最も残っているのはプロ1年目での“2軍戦デビュー”だった。育成選手にとって、2軍公式戦に出場することさえ簡単ではないホークスで、三浦は早い段階でチャンスを掴んだ。
「開幕から2か月くらいで呼んでもらえたので、そこはすごく感謝しています。それがなかったら多分、今の自分はないと思います」と振り返る。育成ルーキーながら5月の2軍戦でプロ初登板初先発すると、三浦は5回1失点と上々のデビューを飾ってみせた。「すぐに(支配下に)上がりたい気持ちがあった中で、すぐ2軍でチャンスをもらえた」と掴んだ自信。育成から這い上がる上でも“原点”となった一戦だった。
戦力外通告を受けた左腕は、秋季キャンプ中に筑後を訪れ、小久保監督に報告した。1、2年目の良い時も悪い時も含め、成長曲線を知ってくれている指揮官も、球団の下した“決断”を残念がり、「決まったことはどうしようもできないから、とにかく頑張れ」と寄り添ってくれたという。「監督さんからもすごくいい言葉をもらえたので。どこに行こうとやるだけだなって。やることは変わらない」と決意を強くした。
「来年は絶対いけるっていう自信もあった中で、こういう形になってしまったのは悔しい。本当にそれが一番なので。プロ野球が厳しい世界っていうのはわかっているし、あとは自分がもう1度気合いを入れてやるしかないです」
新天地の中日については「上林(誠知)さんがいるんで」と笑みを浮かべた。上林の弟は東北福祉大野球部の同学年で仲が良かった縁もあり、ホークス時代も良くしてもらったという。優しい先輩がいることにも心強さを感じていた。
育成での入団にはなるが、来シーズンの開幕前には支配下登録を掴む覚悟で今オフを過ごしている。「もうその気持ちで今も練習しているので。1軍ですぐ活躍したい」。2軍はホークスと同じウエスタン・リーグの所属だが、筑後に“3桁”で帰ってくるつもりはない。
様々な思いを感じているにも関わらず、「この球団には感謝しかないです。最後は悔しかったけど、やりがいある球団でした」と言い切った。60人近い育成選手を抱える大所帯で、限られた「枠」を争う日々は過酷だった。それでも厳しい環境だったからこそ、ここまで成長できたとも感じている。「見返してやろうと思います! もっと活躍してみせます」。25歳の口調は力強かった。
最後にファンへのメッセージをもらった。「3年間、本当に応援していただき、ありがとうございました。来年はホークスから離れてしまうんですけど、違う球団に行っても自分のやるべきことをやりながら結果を出していくので、これからも応援よろしくお願いします」。清々しい表情で感謝を述べた。
「寂しいですね。福岡めちゃくちゃいいっす。神奈川、岩手、宮城と移り住んで、福岡は第4の地元ですね。またいつか戻ってきたい。福岡にずっと住みたかった。あー、ずっとここに住むと思ってたのにな」。たくさんの思い出と、支えてくれた人たちの顔が浮かび、名残惜しそうに空を見上げた。
人も街も好きになった。最後の最後で辛い思いもしたが、それでもホークスへの感謝は揺るがない。新天地に向けて志高く、寂しそうに福岡への別れを告げた。