柳田悠岐が絶対に言わなかったこと 4か月のリハビリ…裏方への絶大な信頼が「すごい」

ソフトバンク・柳田悠岐【写真:竹村岳】
ソフトバンク・柳田悠岐【写真:竹村岳】

2019年には左膝裏の肉離れ…明かされたのは「そことほぼ同じ怪我だった」

 ソフトバンクの柳田悠岐外野手は、5月31日の広島戦(みずほPayPayドーム)で右ハムストリングを負傷した。「右半腱様筋損傷」と診断され、長期のリハビリ生活に突入した。「担当」として、一番近くからサポートしたのが有馬大智リハビリアスレチックトレーナーだった。受け取っていたのは、スーパースターながらも裏方さんに対して敬意とリスペクトを払う姿。ギータのすごさを実感した出来事があった。

 有馬トレーナーは熊本出身で柳田と同学年。「マイナーですけどアメリカのメッツで5シーズン働きました。3Aまでしか経験はないですが、メジャーの選手を見る機会もありました」と、少しずつキャリアを積んでいった。英語での会話も「得意かと言われたらあれですけど、仕事ですから。問題なくコミュニケーションできると思います」と胸を張る。今シーズンからホークスに入団し、6月上旬に初めて柳田と出会った。

 チームの顔を、リハビリ組で預かることになった。「リハビリで担当の選手がそれぞれいるんですけど、みんなで見ていこうっていうことで。担当はしていましたけど、皆さんのおかげでした」。右ハムストリングという負傷箇所について、どのような注意を払ってきたのか。

「もともと左足にも同じ既往があったので。そことほぼ同じ怪我だったので、本人的にもやった瞬間に『今シーズンは無理かな』というのがよぎったらしいです。とりあえず本人とはいつ復帰とかそういう話はせずに、普通にコミュニケーションを取りながら、というところでした。ある程度、リハビリのプランは作って、提供をしていました」

 2019年にも、左膝裏の肉離れを経験し38試合出場に終わった。左右は違えど「ほぼ同じ怪我」だと明かされた。シーズン中の復帰という明確な目標を掲げるのではなくて、ある程度の“余裕”を2人の間でも共有しながら日々を過ごした。久々にグラウンドに立ったのは9月20日。ウエスタン・リーグのくふうハヤテ戦(タマスタ筑後)だった。有馬トレーナーも「もう少し早く復帰できそうだったんですけどね。本人も『もう治っているんじゃない』くらいの言葉をもらいながら進められていました」と振り返る。

「リハビリのプログラムでゆとりを持って進められていたのは、本人から『NO』がなかったからです。そこが今回、かなり上手くいった要因だと思いますね。それだけみんなのことをリスペクトして、リハビリしてくれたと思います。これだけ(キャリアがあれば)やっていたら、こうしたい、ああしたいというのがあると思うんですけど、ほぼ100%くらい、ですね。こちらのプランをフォローしていただきました」

 プロの世界で経験を積み上げていれば、選手本人も怪我に対する知識を持っている。復帰へのプランの中で、要望を抱くこともあるだろう。柳田は有馬トレーナーをはじめ、裏方さんの言葉を信じて、リハビリに向き合ってくれた。「とにかく、やることはしっかりとやってくれました。ウエートをあげたり、患部のエクササイズもしっかりとやってくれていましたし」。先が見えない日々の中で、柳田から感じたのは徹底的な継続力だった。

「(驚いたのは)やるって決めたらやり切れるところですね。信じてやってくれました。若い子は、プランを作っても、ちょっとやったら続かなかったりする。でも、彼の場合はひたすら継続していた。集中力もすごいなと思います。向こうからも、こっちが少し違ったメニューとかを提供したら、『いつもと違うやん』って。ウエートの回数や重さにもすごく敏感ですし、すごく自分の体の感覚が優れているなと思いました」

 復帰が見えなければ、モチベーションを保つのも難しい。その中で柳田は、やるべきことに対する集中力を発揮していたのだ。米国時代も含め、さまざまな選手を見てきた有馬トレーナー。「なかなか取り組めなかったり、練習中の態度に出ていたり、そんな選手もいます。3か月とか半年のリハビリになると、どこにモチベーションを持っていたらいいのか。ちょっと良くなかったら無理なんだと思っちゃう」というのだから、4か月というスピード復帰には、柳田の努力が表れていた。

「柳田選手の場合は、リハビリの次の段階に行くステップをなだらかにしていたんです。(ステップを階段のように)あげて痛みが出ると本人も『あっ』って思うだろうし、今シーズン戻れなくてもいいくらいのスタンスだったので、ハードルを低くして、やっていけるかな、と。長期のリハビリになると状態のアップダウンが激しい選手もいるんですけど、こんなにうまく行ったのは初めてじゃないですかね」

 待望の1軍昇格は、9月30日だった。復帰までのプロセスで、多くのサポートがあった。だから、“最高峰”のグラウンドに戻ってこれた。

(竹村岳 / Gaku Takemura)