「こうなりたくない」…井口資仁氏が感じた“南海色” 常勝球団の礎築いた4人のリーダー

元ソフトバンク・井口資仁氏【写真:荒川祐史】
元ソフトバンク・井口資仁氏【写真:荒川祐史】

井口資仁氏の入団1年目は4位が「チームがいい形にいきつつある年でした」

 ダイエー(現ソフトバンク)やメジャーで活躍した野球解説者の井口資仁氏がホークスを語るコンテンツ(不定期掲載)。第6回は「常勝軍団への転換期」。1997年、入団1年目だった井口氏が感じたのは前身の南海時代から根付いていた“負のオーラ”だった。

「30代の選手がけっこう多かったのですが、彼らがドーンと居座ってしまうような状況で、あまりいい環境とはいえませんでした。これがプロなのかな、と。こういう人たちにはなりたくないと思いましたね」

 当時のダイエーといえば、前身の南海時代の1977年の2位を最後に19年連続Bクラスと長い低迷期にはまっていた。チームを変えるべく、王貞治監督体制となった1995年も5位に終わり、翌1996年は最下位。結果こそ出ていなかったが、勝利にこわだる“王イズム”は徐々にチームに浸透し始めていたという。

「メンバーもフレッシュになってきて、少しずつ南海色が消えていったというか、1997年はいい形にいきつつある年でした」

 ベテランの秋山幸二外野手をはじめ、入団4年目の小久保裕紀内野手が先頭に立ち、王監督が掲げる勝つ野球を体現。チーム内に浸透させていった。「2人がチームの軸として引っ張ってくれて、投手陣でいえば工藤(公康)さん、武田(一浩)さんが入ってきて、いいものをどんどん若手に落とし込んでいきました」。

城島健司球団会長付特別アドバイザー【写真:藤浦一都】
城島健司球団会長付特別アドバイザー【写真:藤浦一都】

工藤公康&武田一浩が取り組んだ城島育成「打撃は天才ですよ」

 また井口氏は、工藤と武田に関しては「あの2人が1番やったことはジョー(城島健司捕手、現球団会長付特別アドバイザー)をどう育てるかというところですね。軸になるキャッチャーとして」と加えた。城島は1994年のドラフト1位で別府大付属高校(現明豊高)からダイエーに入団。井口氏が入団した1997年にレギュラーに定着していた。

「まだ若くて、少し天狗になるような部分もありました。自我が強いといいますか……」。工藤、武田は城島と密にコミュニケーションを図っていた。「球界を代表するようなキャッチャーにするためリード面も含めて教育していました。打撃はめちゃめちゃ良かったですから。天才ですよ」。

 チーム内の“改革”は少しずつ進んだ。1997年を4位で終えると、1998年はAクラス入りとなる3位。そして1999年、球団創立11年目でリーグ初優勝を果たした。ホークスとしては前身の南海が1973年以来に優勝を成し遂げて以来、26年ぶりとなった。

「西武も強かったので、ぶっちぎりではなかったですけど、ベテランと若手がうまく噛み合ったと思います」。シーズン終盤の9月8日には優勝を争う西武との直接対決で、チームリーダーの秋山が松坂大輔から顔面に死球を受けた。チーム内に動揺が走ってもおかしくなかったが、秋山は離脱することなく、フェイスガードを使用して試合に出続けたことで「チームのギアは1つ上がったと思いますよ」。結束力は高まった。

 チームが強くなっていく過程を、井口氏も肌で感じていたという。「全然違いました。僕の1年目でだいぶベテランの人たちがごっそりいなくなりました。ドラフトではいい選手をとってきて、うまくポジションにはめ込んでいましたね」。

 井口氏にとっても入団3年目での初優勝。「自分もレギュラーに定着しかけた頃で、とにかく必死にやっていました。ようやく王会長が描いていた形になりつつあって、優勝できたことが自信になって、そのあとにつながっていったと思います」。万年Bクラスだったホークスが常勝軍団へ変貌していく“序章”となった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)