3年間で何度も光と闇を味わった。それでも負けじとコツコツと歩みを進めてきた。育成3年目の夏、ついに掴んだ支配下への切符。プロ野球選手としての本当のスタートはここからだが、報われた苦労と思いに祝福とエールを送りたい。
2021年の育成ドラフト4巡目で東北福祉大から入団した三浦瑞樹投手が念願の支配下登録を勝ち取った。盛岡大付高時代は春夏3季連続で甲子園に出場して通算4勝。大学では1年春からリーグ戦、全国大会でも登板し、チームの主力として投げ続けてきた。高校、大学と全国の舞台で実績を積み重ねてきた実力派左腕だったが、プロ入りは育成だった。
「選ばれるかどうか心配でした。スカウトさんとスタッフさんには『今の状態だと厳しい』と言われていて…」。ドラフト前には不安しかなかった。置かれた状況は決して楽観できるものではなく、それを自分でも理解していた。そんな中で迎えたドラフト当日。東北福祉大の同期である大竹風雅投手が先にソフトバンクから5位指名を受けた。
大竹は大学時代、公式戦わずか2試合の登板。潜在能力の高さを評価されての支配下指名だったが、主力としてフル回転してきた自身の名前はいつまでも呼ばれない状況に、三浦は一時、“絶望”を味わった。ようやく名前が呼ばれたのは育成4巡目。願った形ではなかったものの、「呼ばれた瞬間ホッとしました」と安堵感と喜びを噛み締めた。
「順位は関係ないから」。指導者らからの声に背番号「140」を背負った背中を押されて、プロの世界に飛び込んだ。入団してすぐにアピールは始まった。新人合同自主トレ、春季キャンプと常に新人1番乗りでブルペン入り、実戦デビューとステップを踏んでいった。練習も遅くまで残り、黙々と熱心にトレーニングを重ねる姿に気持ちも伝わってきた。
1年目の5月には2軍で公式戦デビューを果たし、8月には公式戦初勝利もマークした。2軍で11試合に登板して4勝。試合を作る能力の高さを見せつけ、支配下候補の1人として注目度も増した1年目だった。球団からの期待も高く、オフにはオーストラリアのウインターリーグにも派遣された。2年目には支配下昇格候補の筆頭になるのではないか、と思われた。
だが、2年目は一転、苦しいシーズンになった。昨季のソフトバンクの2軍は、1軍ローテ候補の投手が多く、三浦も1年目よりも登板機会を得られず、主戦場は3軍になった。当時2軍監督だった小久保裕紀監督も、育成投手に数多くチャンスを与えられないチーム事情を悔いていたほど。ただ、その中でも三浦は、機会を見つけては登板機会を貰う1人だった。
「1試合、1試合、(2軍に)残れるか残れないかの中で投げていかないといけない」と、覚悟を持って臨んでいたが、その数少ないチャンスでことごとく結果を残せなかった。結果的に、昨季は2軍で5試合に登板して0勝3敗。「貰えたチャンスを生かせていない」と唇を噛む1年になった。改めて振り返っても「去年はもうほとんど苦しかった」と溢すほどだった。
酸いも甘いも経験した2年間を経て、並々ならぬ覚悟を持って挑んだ3年目だった。前半戦はウエスタン・リーグで11試合に登板して2勝3敗、防御率1.52。先発した10試合中8試合でクオリティスタート(6回自責点3以内)を記録し、そのうち4試合はハイクオリティスタート(7回自責点2以内)だった。味方の援護がない時でも、粘り強く長いイニングを投げてきた。
オフには今季に賭ける思いから、ある行動に出ていた。昨季で筑後の「若鷹寮」を退寮すると、本拠地みずほPayPayドームの近くに居を構えた。育成選手は当然、1軍の試合には出られない。福岡市内からの“筑後通い”は時間も金銭的負担も大きくなるため、ファームの選手は筑後にほど近いところに住むことも多い。三浦があえてドーム近くに住むことにしたのは、支配下になってここで活躍するんだ、という強い覚悟が表れた決断だった。
念願だった支配下昇格を掴み、背番号は「140」から、昨季まで大関友久投手が背負った「42」へと変わった。目指した本拠地での1軍戦に出場する資格も得た。示した覚悟とともに勝ち取った2桁の背番号で、次は1軍のマウンドを目指す。