2022年4月にトミー・ジョン手術 右肘に2度のメスも復帰後に最速152キロ
ようやく実戦登板にまでたどり着き、指揮官の目に止まってみせた。ソフトバンクの大竹風雅投手が台湾で行われるウインターリーグに参加。海を渡り、オフであろうとマウンドに立つことになった。「一番は支配下に戻ることが目標。これまでは怪我が多かったので、来年1年間、怪我なく投げることも目標です」と語り、決戦の地に向かった。
福島・白河市出身。光南高校時代もエースではなく、高校で野球を終えようともした。縁と出会いのおかげで東北福祉大への進学が決まったものの、3年秋には右肘のクリーニング手術を受けた。大学のリーグ戦では通算2試合登板。2021年のドラフト会議では5位指名を受けてプロの世界に飛び込んだが、輝かしいキャリアを残してきたわけではない。今回は、プロ入り後の苦悩にフォーカスする。夢だったプロに入ってからの方が、辛い時期だった。
2022年の1月の新人合同自主トレ、いきなり違和感を覚えた。1度目の手術の時は明確な痛みだったが、今回は「本当に違和感って感じです。ずっと『おかしいな』って感じがなくならなかった」。トレーナーにも相談して検査をしたところ、肘の靭帯が損傷気味になっていたことが判明した。1年目で投げたい気持ちが大きかったものの「早めに手術した方がいいと思った」と決断した。2022年4月14日に「トミー・ジョン手術」としてメスを入れたことが球団からも発表された。
「なんて言うんですかね、本当に違和感だったんです。ずっと本調子ではなくて、痛いという感じではなかったです。いろんなことはしてみたんですけど、やっぱりなかなか良くならなかった。肘に衝撃を入れてみても良くならなくて、肘で有名な先生のところに行っても『オペした方がいい』と言われたので、そこで決断しました」
長いリハビリ生活が始まった。2位指名で入団した同級生の正木智也外野手は1年目から1軍で3本塁打を放つ。晴れ舞台で活躍する一方で、自分は投げることすらできない。「しんどかったです。本当に『何やってんだろ』って感じでした」。手術をして、2か月は患部を固定。バイクマシンをこぐなど、肘を使わないトレーニングしかできない。自分はプロでやっていけるのか――。ストレスも不安も、大きくなる一方だった。
投球を再開したのは手術から4か月後。願い続けた待望の“1球目”は「真下でした。真下に投げることから始まりました」。それを2週間ほど繰り返し、ようやくネットスローだ。投げられることになっても、キャッチボールすら、ほど遠かった。慎重に調整を重ねて、今年の7月にようやく実戦に復帰。ファームの非公式戦では14試合に登板して防御率1.13。大学時代は150キロが最速だったが、今季には152キロも計測した。
今振り返ってみて“一番の挫折”は「去年の7月から8月」だと漏らす。まさにトミー・ジョン手術明けで投球すらできない時期。投げることが仕事の投手が、それすらできない日々だった。「今まで味わったことのない感じでした。(投げられないことが)受け止められなかったです」と苦笑いする。支えとなったのは、同じくトミー・ジョン手術を経験して復活した先輩たち。エンゼルスの大谷翔平投手や、パドレスのダルビッシュ有投手……。「手術をしてからでも成功していたので、自分もこうなるんだって感じで耐え忍んでいました」と振り返る。
家族の存在も大きな支えだった。父親は野球、母親はソフトボールをしていた“野球一家”。頻繁ではなくとも連絡をくれて「ゆっくりやりなよ」と、焦ってしまうような言葉はかけてこなかった。「『調子どう?』っていうふうにはLINEをしてきたりするんですけど、あまりは触れてこなかった。伸び伸びとさせてくれました」と感謝する。心配をかけていることは当然、わかっている。マウンドに立つことで、2桁に返り咲くことで、支えてくれた両親に恩返しがしたい。
10月の「みやざきフェニックス・リーグ」でも登板をして、初めて小久保裕紀新監督の前で投球する姿を見せられた。「こんないいピッチャーとは思わなかった」と言わしめ、大竹自身も「率直に嬉しかったです」と噛み締める。今は台湾のウインターリーグにいるが、実戦から離れていた分だけ、身に起こる全てをスポンジのように吸収して帰ってくるはずだ。来季も激しいだろう支配下の争いに、真っ向から挑む。
(竹村岳 / Gaku Takemura)