福島県白河市出身で「家族みんな野球が好き」 大学への進学が人生を変えた
指揮官の目を引いた育成右腕は、一体どんな経歴なのか。高校で野球を終えようとしたこと、2度の右肘手術など、紆余曲折を経て今ここにいる。ソフトバンクの大竹風雅投手は、台湾で行われるウインターリーグに参加する。来季3年目を迎える大竹の歩み、プロ入りへの大きなきっかけとなる母からの一言に迫った。
今季、ウエスタン・リーグでの登板はなし。ファーム非公式戦では14試合に登板して1勝1敗、防御率1.13を記録した。10月に宮崎県で行われた「みやざきフェニックス・リーグ」でも登板を重ね、小久保裕紀新監督に「あんないいピッチャーと思わなかった。収穫です」とまで言わせてみせた。大竹も「率直に嬉しいです」と少しずつ手応えを積み重ねているところだ。
福島県白河市出身の24歳で、右投げ左打ち。最初に始めたのは野球ではなく、ソフトボール。「家族みんな野球が好きで、母もソフトボール、父も野球をやっていました。兄もソフトボールチームに先に入っていて、それにちょくちょく遊びに行ったりしていました」と、自分も白球に触れるのは日常的なことだった。小学校1年生の秋から、兄が入っていたチームに入団。すべてはここから始まった。
高校は県立の光南高に進学した。当時から投手もしていたものの、メインは野手だったという。3年春の背番号は4番、夏の背番号は3番だった。140キロを超える球速は出していたものの「エースがいたので、自分は2番手でした」と影に隠れていた。3年夏の大会でも、準々決勝で敗退。3年間で甲子園の土を踏むことはできず、決して輝かしいキャリアを歩んできたわけではない。
転機となったのが、東北福祉大への進学だった。大竹は「野球は高校で終わるつもりだった」と、現役生活をひと区切りするつもりでいた。「夏の大会が終わってやる気が失せたというか、結構練習もしんどかったので。火曜と木曜の5、6限目は部活ができたので昼からもう練習したりしていた。(高校以降、野球は)もう遊びでやるくらいでいいかなと思っていました」と苦笑いで振り返る。就職を希望していて、少しずつ進路を決めていく準備が進んでいるところだった。
そんなある日、スカウトが高校のグラウンドにまで来たという。同級生で、2017年育成ドラフト2位で楽天に入団する松本京志郎内野手を同球団のスカウトが視察に訪れた。「その時に自分がたまたまピッチングをしていて『いいね』と言ってもらえた」。そして東北福祉大のコーチが、今度は大竹の視察に来た。「(そのコーチが)父とも話をして、説得された感じで」。18歳の気持ちは揺れる。進学を決めた決定的なきっかけは、母親からの言葉だった。
「母に『風雅が後悔しなくても、大学に行かせなかったことをお父さんとお母さんが後悔する』と言われたことです。それなら、挑戦できる機会があるならやってみようと思いました」
大学から本格的に投手としての道が始まった。夢を抱いて入学したものの、選手層の厚さと自身の怪我もあり通算2試合の登板に終わる。コロナ禍が世界を直撃した2020年の秋(当時3年)には右肘のクリーニング手術を受けた。「コロナの前までは調子も良くて先発もする予定だったんですけど、コロナになってから練習環境もあまりなかった。キャッチボールする相手もいなくて、練習が開始となった時に他のみんなはそれなりに投げていた。自分もついていこうと思い切り投げていたら……」と、焦りが怪我に繋がってしまった。
手術前は、投げれば当然痛い。日常生活にも支障は及び「シャンプーで頭を洗う時も痛かったです」と明かす。ウエートトレーニングもなかなかできず、肘に負担はかけられなかった。華々しい経歴ではなく、今大学時代を振り返っても「8割がしんどかったです。リーグ戦で投げるのがメインだったんですけど、その前に結果を出そうとして怪我をしていた。もうちょっとうまくやれたのかな」と、辛かった日々の方が脳裏には焼き付いている。
2021年10月11日、運命のドラフト会議を迎えた。同級生の椋木蓮投手がオリックスに1位指名されたが、自分がかすかに聞いていたのは育成指名の可能性。ホークスから5位指名を受けた時も、大竹がいたのは会見場ではなく寮の部屋だ。「ボケっとテレビを見ていました。歓声が上がったので誰か呼ばれたのかな」というのが、自分の指名だった。後輩に呼ばれて、会見場に急いで向かおうとしたが「スーツのズボンが入らなくて、一番大きいサイズのスーツを急いで借りました」。今だから笑える思い出だ。
夢だったプロの世界に飛び込むことになった。しかし、2022年4月にはトミー・ジョン手術も経験する。次回はプロ入り後、大竹が直面する“挫折”に迫る。
(竹村岳 / Gaku Takemura)