「井上のことは中学校から知っていますし、(痛みに気がついてから)すぐに井上には言っていました。『焦らんと頑張れよ』って言ってくれましたし、僕が(大阪の実家から)筑後に帰ってきた時も部屋に来てくれたりとか、一緒にいようとしてくれました。今日も、サードをあいつが守っていて、声をかけてくれたことで楽になりましたし……。ベンチに帰った時も『ここからやな』って言ってくれたので、嬉しかったです」
ともに大阪府で生まれ育った。大阪・西成ボーイズ出身の田上は、奈良・生駒ボーイズ出身の井上を初めて見た時の記憶が忘れられない。「バケモンでした。僕がどんだけ頑張っても3年間で1回も放り込めなかったグラウンドで、準決勝、決勝で5ホーマーしたんですよ。こいつには敵わないと思って、笑っちゃいました」。高校ではそれぞれの道を歩み、2020年のドラフト会議でホークスに指名され、やっとチームメートになった。連絡先も知っていたから、すぐに関係性は深くなった。
田上が発症に気がついたのは、今年2月の春季キャンプ中だった。ランニングもできないほどの激痛。すぐにMRI検査を受け、キャンプ地から離れることになった。「心配をかけるのもアレだったので。(誰かに)聞かれた時は『背中が痛くて……』と言っていたんですけど」。デリケートなことだけに、なかなかチームメートにも打ち明けられなかった。井上は事実を知った瞬間をこう明かす。「ゴルフに行く予定だったんですけど、奏大が『背中が痛いから病院に行ってくる』って言って、それで見つかったらしいです」。その後、軽い症状ではないことが本人から電話で伝えられた。
「はじめに言われた時は、まだ奏大も詳しくは分かっていなかった。一番仲もいいですし、僕もショックでした。検査も受ける前だったので、まだなんとも言えなかったんですけど。良性だとわかって、ひとまず安心しました。そこでも、『シーズンの最後に復帰ができたら十分じゃないか』という話を2人でしましたし、今日その目標が達成できて、良かったです」
その後、田上は大阪の実家で静養することになった。「ランゲルハンス細胞組織球症」と確定した診断結果も、井上は大阪にいた田上から電話で知らされた。「(その病名は)聞いたことなかったっすね」。
田上が春先に病院を受診すると、溶けていた骨が回復していることが判明した。「もしかしたらできてきているかもしれない」。競技復帰に対して、明確に火がついた瞬間だった。「(筑後に)帰るわ」。田上は家族に打ち明けた。「母さんは『まだいいやろ』と言っていたんですけど、そっちの方が僕の気持ちも上がると思った。それが4月の終わりくらいです」と、若鷹寮に戻る決意をした。
筑後に来ても、できることは多くない。井上は、苦しむ盟友の部屋になるべく行くようにしていた。「なった本人にしか気持ちは分からないと思う。僕は聞くしかできなかったので。不安だったり、そういうのをただ聞こうと思っていました」。力になりたい。寄り添いたい。その気持ちだけだった。
この日の3軍戦。田上は1回無失点で役割を終えた。わずか5球、最速は147キロだった。ベンチに帰ってきた右腕の隣に、井上がすぐに座る。「本当にしんどかったと思うんですけど……。『やっとやな』、『田上、復活やな!』って。奏大も思うところがあったと思うので」とやり取りを明かした。マウンドでは集中した表情だったが、ベンチでは涙を流していた。「僕が行ったら泣き始めたっす」と笑うが、右腕の復活への一歩が自分のことのように嬉しいのは、発症から復帰登板までの道のりを近くで見てきたからだ。
「奏大の話を聞いて、ちょっとでも楽になってくれたらいいなって思っていましたし。そんなに深くは僕から言うこともないんですけど、こうなっていけたらいいなって話をしたり。僕もリハビリになってからインドアになったというか、あんまり外にも出ていなかったんですけど。気分転換で、一緒に外へご飯を食べに行ったりもしました。ちょっとでも奏大の支えになれていたのなら、良かったです」
2020年のドラフトで指名された支配下の5選手は、全て高卒。笹川吉康外野手、牧原巧汰捕手、川原田純平内野手も同期入団であり、同学年だ。その中でも井上は、田上の存在を「一番仲がいい」と表現する。「一緒に活躍したい思いは強いですし、本当に今日は良かったです」。高卒4年目の21歳。苦しみを分かち合ってきた若鷹の絆が、確かにここにある。